お笑い芸人のマキタスポーツさんによる「AERA」の連載「おぢ産おぢ消」。俳優やミュージシャンなどマルチな才能を発揮するマキタスポーツさんが、“おじさん視点”で世の中の物事を語ります。
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性教育について。
この問題が難しいのは、本来、画一的なやり方の入る隙間がないほどパーソナルな問題なものを、社会的、文化的に均質に教えようとしてきたことである。そんなものはザルだ。掬(すく)っても意味がない。ならば、各ご家庭で自分なりに考えて子供らに教えればいいがそれはしたくない。やましくなく、自らの手もよごさず都合よく教えられるアプリでもないのか。期待はできないだろう。
何故か? それは「性行為」が“素晴らしいこと”であるという嘘を教えなくてはいけないからだ。
性は厳然として「在る」ものであり、善きこと、あしきこと、または素晴らしいとかじゃなく存在しているもの。性行為のおそらく手前にある「恋」も含むが、そこにあるのは、何も足せない、何も引きようもない「快楽」という“生き物の源泉”だ。「お父さんとお母さんが愛し合ってあなたが生まれた」という偽善、幻想も、途中までは有効かもしれない、が、「性」の当事者である子供らが、年頃になりそれに直面した時、愕然(がくぜん)とするのは間違い無いのである。いわく「思ってたのと違う!!」。
「子供を生むためだけじゃないセックス」の氾濫、また、自分もそれをしてきたという事実。「セックス」と「快いからヤる」が直結していない(いけない)矛盾をどうしたらいいのか。
「セックス」を「戦争」に置き換えたらどうなるだろう? 語弊があることを承知で言えば、闘争欲、競争欲、収奪欲、勝利欲、嫉妬心……それらを満たすのが戦争であり、恋であり、セックスだ。次第に賢明になった人類は、「欲」があることは認め、それとどう付き合うかを考えてきた。
「戦争してはいけない」というのは簡単である。屁理屈を言えばそれは「恋をするな」にも等しいということ。でも、負にも正にも転ぶこの“原始的なエネルギー”まで否定することは出来ないから、「それはそれ、これはこれ」と分けてきたのが人類なのだった。そんな中私が今取り組もうと思っているのが……、