浜矩子(はま・のりこ)/1952年東京都生まれ。一橋大学経済学部卒業。前職は三菱総合研究所主席研究員。1990年から98年まで同社初代英国駐在員事務所長としてロンドン勤務。現在は同志社大学大学院教授で、経済動向に関するコメンテイターとして内外メディアに執筆や出演
浜矩子(はま・のりこ)/1952年東京都生まれ。一橋大学経済学部卒業。前職は三菱総合研究所主席研究員。1990年から98年まで同社初代英国駐在員事務所長としてロンドン勤務。現在は同志社大学大学院教授で、経済動向に関するコメンテイターとして内外メディアに執筆や出演
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我々が心配すべきなのは『羊飼い』たちの沈黙なのでは(※写真はイメージ)
我々が心配すべきなのは『羊飼い』たちの沈黙なのでは(※写真はイメージ)

 経済学者で同志社大学大学院教授の浜矩子さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、経済学的視点で切り込みます。

*  *  *

「羊たちの沈黙」という映画をご記憶の読者は多いだろう。殺人鬼が殺人鬼の逮捕に力を貸す。力を貸す方の殺人鬼が、精神科医のハンニバル・レクター。彼の力を借りて犯人捕縛に奏功するのが、FBI捜査官の卵、クラリス・スターリングだ。レクター博士をアンソニー・ホプキンス、スターリングをジョディ・フォスターが演じた。二人とも、この作品でアカデミー賞を受賞している。

 沈黙するのは、屠殺場に向かう羊たちだ。聖書の中の「生贄(いけにえ)の子羊」のイメージも、作者の中ではどこかで二重写しになっているのかもしれない。だとすれば、ちょっとおかしいと思うが、それはさておき、殺される命運を前にしての羊たちの沈黙は、あきらめの表れか。あまりにも重い不幸に見舞われた時の無気力か。その姿は哀れだ。

 今、グローバル社会のあちこちで、羊たちに沈黙を強いようとする力がうごめいている。国境を越えた絆を断ち切り、国家主義の城壁の中へと人々をおびき寄せる雄たけびや甘言が聞こえてくる。国粋主義者たちは決して沈黙しない。彼らは騒々しくて、口数が多い。

 ただ、最も憂慮すべきは、羊たちの沈黙でも、自国第一主義者たちの喧騒でもないかもしれない。今、我々が最も心配すべきなのは、実は「羊飼い」たちの沈黙なのではないか。第二次世界大戦が終焉した時、国々は、超国家的な羊飼い役をいくつかの機関に委ねた。それらが国連であり、国際通貨基金であり、今日の世界貿易機関であるはずだ。

 羊たちに任せておくと、すぐケンカになる。ケンカに備えて、仲間づくりや子分づくりの競い合いが絶えない。そうこうするうちに戦争になる。羊たちがお互いを屠殺場へと追い込んでいく。この悲惨にして浅はかな顛末を二度と繰り返すまい。この決意が羊飼い諸機関の設置につながった。

 ところが今、それらの羊飼い機関はひどく沈黙している。その中で、羊たちは下手をすれば狼どもに付いて行きそうになっている。アメリカという名の狼。中国という名の狼。ロシアという名の狼。沈黙せよ、狼ども。声を上げよ、羊飼いの群れ。迷うな、羊たち。

AERA 2018年9月3日号