批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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東京医科大学で入試不正が行われていた。文科省幹部子息の不正合格に加えて、2006年度より今年まで、学生男女比調整のため、女子受験生に一律に減点が行われていたことが明らかになったのだ。文科省との癒着もさることながら、「女性差別」と呼ぶしかない操作が有名大の入試で堂々と行われていたことに、多くのひとが衝撃を受けている。
同大はすでに会見を開き、不正を陳謝している。差別はなくなると信じたいが、楽観的になれないのは、今回マスコミでもネットでも大学擁護論がかなりの数、現れたからである。点数を操作しないと女子学生が多くなる、しかし女性は激務に耐えられないし結婚や出産で退職してしまう、男性医師確保のためには多少の操作は必要だといった意見が医療関係者から寄せられている。擁護者には女性も含まれている。おそらくは、これはこれでリアルな「現場感覚」なのだろう。その感覚があるかぎり、見えない差別は続くことになる。
ここには日本社会の抱える困難が典型的に現れている。男女平等はいいけどさ、実際はそれじゃ回らないんだよという「現場の論理」は、この国ではきわめて強力だ。
けれども現場の論理は本当にそれほど万能なのだろうか。日本はそもそも男女差別がたいへん激しい国である。それは統計から明らかであり、差別意識がない云々で糊塗できるものではない。17年のジェンダーギャップ指数は過去最低で、144カ国中114位である。同指数の算出根拠を疑う声もあるが、国会議員の男女比率の割合(18年6月時点)だけ見ても191カ国中158位で、韓国やロシアやトルコよりも低い。ともに先進国とはとても言えない数字なのだ。この現実を「現場の論理」で正当化しようとしても、明らかに無理がある。男女平等では現場は回らないというのであれば、諸外国の「回っている現場」に学べばいいだけの話だ。
現場を理念に優先させる。それではあらゆる改革は挫折するほかない。けれどもほんとうは、理念は現場を変えるためにこそある。必要なのは現場万能主義からの卒業だ。これは男女平等の話に限らない。
※AERA 2018年8月27日号