気の毒である。でも、対人関係やコネクションを断つのはいけない。男として重要なその時期に「影響」が生まれる機会を自ら摘んでしまったのだ。指針の無いその身体は、生活にまみれ、あの頃の、葬式を通して何かを得ようというような覇気もない。些細なことだが、5年前まであった確かな兄の社会性がすっかり消えたと思える行動があった。

 初七日の食事をしていた時のこと。兄は、無意識におかずの小鉢を自分の元に箸でたぐり寄せたのである。その行動が、妻に先立たれ、誰も何も言わなくなっていた晩年の親父にそっくりだったのだ。

 現在私は「パパにだけは絶対に似たくない」と娘に言われている身だ。孤独という自由に憧れるが、外部、つまり家族という不自由に接していることでなんとか人並みでいられている。野放図な自由は、己の孤独を勘違いしたままにしがちだから。

 兄は凝り固まった独自ルールを誰からも否定されずに固めてしまっていた。結果、アップデートを怠り原型に近づいた。

 親という原型以外の者からどれだけ吸収出来たかで人生の彩りは変わる。否定するのでなく、原型という、プラットフォーム+何かで人間性という回路をこさえていかなくてはいけない。「頑張らないと親に似る」とはそういうことなのである。

AERA 2018年6月18日号

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