哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
* * *
農村の過疎化が深刻な韓国で農村人口がV字回復している。若い人たちの地方移住が増えているのである。この20年で50万人が都市から農村部に移住した。移住の主因は都市部における雇用環境の劣化とされているが、それだけではあるまい。激しい競争を勝ち抜いて世俗的成功を求める若者たちがいる一方、競争から立ち去り、落ちついた、穏やかな田園での暮らしを求める若者たちが出現してきたのである。当然の流れだと思う。
日本でも、政府が2014年に実施した世論調査によると、農村などへの定住願望が「ある/どちらかと言えばある」と回答した者は都市住民の31.6%に達している。これは05年の調査に比べて11ポイントの増。20~29歳の男性では47.4%に達した。私が聞いた限りでも、地方移住を支援するある団体では、問い合わせ件数が過去5年で10倍に増えたという。
あくまでこれは「願望」や「問い合わせ」であって、地方移住の「実態」とは違う。地方移住者の実数についてはまだ確定的なデータがない。15年に毎日新聞が明治大学などとの共同調査結果を発表して、移住者は1万1735人、5年間で4倍以上に増えたことを明らかにしたが、アンケートは網羅的なものではなく、行政の支援を申請せず、自力で地方移住した人たちはカウントされていなかった。人口統計だけを見れば、むしろ東京への若者たちの流入増加が続いている。
私の周囲ではここ数年、地方移住者が増えている。地方移住者たちの集まりに呼ばれることも多い。「潮目の変化」が来ていることが肌で実感される。韓国のように、100万人規模の地方移住がこのあと実現する可能性はかなり高いと私は思う。
今国会では財界の要請に応えて、「高度プロフェッショナル制度」を含む法案が採択される見通しである。これによって労働者の雇用環境はさらに劣化する。過労死寸前まで追いつめられた若者たちの中から、賃労働以外の生き方を模索する人たちが出てくるのは自明のことである。いずれ、この「働き方改革法案」が「今思えば、あれが地方移住の決定打だった」と回顧される日が来るだろう。
※AERA 2018年6月18日号