AERAがそれまで注目されることの少なかった女性の視点から、男女の生き方を報じ始めたのは1996年のことだった。それから20余年、時代はどう変わったのか。
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引き金は、たった一杯のラーメンだった。
夜10時過ぎ、夫が帰宅すると、新居は暗く、台所には何も作り置きがなかった。自分で作るのは億劫だ。残業していた妻が帰宅するや、夫はせがんだ。
「ラーメンつくれ、つくれ」
妻は無言で、インスタントラーメンを1人前作ると、どん、とテーブルに置いた──。
22年前の1996年5月、AERAが「ラーメン離婚」と題して巻頭で報じた記事には、夫にとって思いもかけぬ原因から、結婚わずか1年前後で離婚にいたる複数組の夫婦が、男女双方の視点で描かれている。
このラーメンの入った丼がテーブルに置かれた瞬間こそ、妻が離婚を決意した瞬間であり、AERAがそれまで注目されることの少なかった女性の目線と、男女の生き方を取り上げる合図だったかもしれない。
「ライバルは朝日新聞です」というキャッチコピーでAERAが創刊したのは、88年5月。以来、硬派な週刊誌としてニュースを報じてきた。この記事を執筆した朝日新聞社の小野智美(53)は、「戸惑いもあった」と当時を振り返る。
「AERAの巻頭記事といえば、政治や国際問題が主流でした。私自身、仕事面では女性で損をすることしかなかったので、女性の視点を取り上げることに抵抗がありました。仕事では女を感じてほしくないし、見せたくないと思っていたんです」
以前属した政治部に、現役の女性記者はいなかった。議員会館に足を運び名刺を渡そうとしても、男性議員はソファに寝そべり、起き上がってもくれない。名前ではなく「お姫ちゃん」と呼ばれ、記者として正当に扱われるまでの道程は果てしなく遠く思えた。そんな折、冒頭の共働き夫婦を取材した。自身は未婚だったが共感した。「女性の生きづらさ」が蔓延していた。
「声を上げれば、『だから女はダメだ』と言われ、余計つらくなりそうで、正直、今も怖いです。ですが、女性が女性のことを書かないと、誰も書いてはくれないと気づいたんです」(小野)
「ラーメン離婚」は、大きな反響を得た。以降、AERAは「男女の生き方」を主要なテーマのひとつとして扱っていく。
編集長を2度務め、当時のAERAをよく知る朝日新聞社の一色清(62)は言う。