東京ボンバーズの一員として、「ローラーゲーム」ブームを盛り上げた佐々木ヨーコさん。「ローラーゲームの女王」と呼ばれた彼女が当時を振り返る。
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練習生として渡米した頃から生活の不安はなかったというヨーコさんは後輩たちに申し訳なさそうに、こう語った。
「オーナーのオフィスの真後ろにあるハリウッドの一等地にあった家具付きの部屋を与えられ、生活費として週に何十ドルかもらってました。食材を買って自炊して残ったお金で服も買ったりして、普通に生活できました。具合が悪くなったら『目が飛び出るほど払った』とか嫌みを言われつつも、保険もないのに病院に連れてってくれました。
だから、のちのち、ボンバーズの若手選手の苦労話を聞いたとき、驚きました」
板橋の練習場では彼女だけ更衣室が別で、1軍選手の控室を知らなかった。彼女に取材が集中し、ほとんど事務所にいたからだ。社長室に入ることができるのも彼女ぐらい。そんな“別格”扱いを本人は喜んでいなかった。
「芸能人水泳大会なんかに出させられて、嫌でね。もっとも、出ると本気モードになって他の出演者に『顔が怖かった』なんて言われて(笑)、メダルはいっぱいもらいましたけど。
ドラマにも出させられたし、歌番組にも出させられて梶芽衣子に似てるからと『怨み節』って曲を歌わされたり……。
広告塔ですよ。
自分が思っていたのと違う方向に行ってる、と思ってました。『サインして』『握手して』……指さされるのが負担で、芸能人じゃない、と思ってました。
違和感、です。ただ、オーナーには逆らえない、とも思ってました。オーナーは、選手が《好きだから》やっていて、《その場を失いたくない》という気持ち=弱みに付け込んでたと思います。
紳士然としてましたが、自分だけ儲けてて、日本語も、しゃべれるのにわからないフリをするような人でした。
東京ボンバーズは私の青春……自分で楽しんで、自分で終わらせちゃった“花火”みたいなものでした」
(ノンフィクションライター・渡辺勘郎)
※週刊朝日 2023年3月3日号