2012年から5年間、坂本龍一への密着取材を敢行した映画が公開中だ。スクリーンの中で坂本は、音楽を作り、がんになり、東京・永田町の国会議事堂前に立つ。1960年代から彼を知る「旧友」がインタビューした。
坂本龍一(65)はいつも、くぐもった声で話す。こちらも鼻炎気味、負けず劣らず声が通らない。いきおい、スタジオの隅で互いの顔が近くなる。
「なんだか恥ずかしいね」
「何十年ぶりかな。いつ会ったか忘れちゃったくらいだね」
坂本と私は、1960年代後半の数年間を同じ高校で過ごした。坂本が1年先輩。初めて会った半世紀前から柔らかな笑顔は変わらない。90年から暮らす米ニューヨークで「アルカイックスマイル」と言われたかもしれない東アジアのミスティックを、少年時代から漂わせていた。
●あのときのテープは
ここ数年、彼の姿を何度か見た。2012年7月の首相官邸前や15年8月の国会議事堂前。人いきれにむせ返る雑踏の中で、車道を固めた警官隊の向こう側から、坂本がマイクを通して語りかける声を聴いた。
震災以降の彼の動きを追った、新進監督スティーブン・ノムラ・シブルのドキュメンタリー映画「Ryuichi Sakamoto: CODA」を観た。CODAは楽章の終わりを告げる独立した部分であり、次なる展開を予兆する音楽用語だ。その映像の始まりに、原発崩壊から間もない福島の高線量地帯を行く坂本の様子が映し出される。同じ年に南相馬に行っていた私はそのあたりから口火を切ろうとしたが、坂本は、
「前から聞きたかったんだけど、新宿で(君たちが)やってたジャズ喫茶で、阿部(薫)たちと演ったでしょ。お客が3人なのに、こちらが5人とか」
といきなり切り出した。
1975年のセッションである。阿部は78年に29歳で早世した前衛的なサックス奏者。他に間章(あいだ・あきら)や竹田賢一といった批評家、打楽器の土取利行(つちとり・としゆき)と共演した。彼らはジャズを超えて、音楽が成り立つ危うい場所そのものを「即興」した。当時「環-螺旋(らせん)体」と名のった音の実験室である。
このころの坂本は、東京藝術大学で小泉文夫の民族音楽のクラスを熱心に聴講していたから、ちょっとありえない二つの音楽実験室に同時に関わっていたことになる。こういうところが、彼の本当の面白さ。
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