ボウイ氏も、その空間と時間に魅了された一人のようだ。

「師のように慕ったキッド氏と桃源洞で語り合う時はくつろいだ様子でいて、その時間をいとおしんでいることが伝わってきた」。72年からボウイ氏の撮影を手がけた写真家の鋤田正義氏(79)は振り返る。

 ボウイ氏とキッド氏が交友を持ったいきさつは定かではないが、若い頃から仏教に関心を持っていたボウイ氏が日本では京都に注目することは必然と言えるだろう。ただ、今ほど情報環境が整っていない当時、古都の歴史や文化に分け入るには先導役が欠かせない。それがキッド氏だったに違いない。

 ボウイ氏より20歳ほど年長のキッド氏。仙境のような邸宅で誰よりも京都らしい暮らしを体現する「師」は数奇な運命を抱えていた。キッド氏の自伝的小説『北京物語』(89年、世界文化社)によると、米ミシガン大学で中国文化を学んだ後、交換留学生として北京へ。そこで高官の娘と結婚。しかし、毛沢東による「共産革命」で特権階級の一家は没落。妻と母国に渡るが、中国帰りのキッド氏は「赤狩り」の憂き目に遭う。妻と別れ、新天地に日本を選んだ。神戸大学や大阪外国語大学で教壇に立ち、神戸から京都に居を移した。京都では外国人に伝統文化を教える大本・日本伝統芸術学苑を76年に亀岡市の大本本部に設立し、学苑長を約10年間務めたが、ボウイ氏に先立つこと約20年、96年ごろに亡くなった。同居人だった森本氏も2015年に死去し、「桃源洞」も今はない。

 昨年7月、森本氏の一周忌にあわせた追悼会が「桃源洞」に近い東山区のウェスティン都ホテル京都で開かれた。キッド氏もよく訪れたホテルという。京都の老舗和菓子店主や教えを受けた研究者、実業家といったゆかりの人々が、故人との思い出を語り合った。

 会場には、ボウイ氏がキッド氏の関係者とともに大徳寺や祇園祭を訪れた際のプライベート写真の一部も飾られた。森本氏が撮影したとみられるその写真の中には、灯籠から顔を出すボウイ氏の意外な素顔も。会場を移し、夜も更けた宴席で大徳寺第530世住持の泉田玉堂氏(75)はこう語った。

「絶えず変わり続けようとしたボウイ氏は禅などを通して内面世界を探究するために桃源洞の門をくぐり、今の京都から何でも学び取ろうとしたのでしょう」

 亡くなった後も放たれるロックスターの輝きの裏には、京都での色濃い時間が流れていた。(京都新聞記者・樺山聡)

AERA 2017年11月20日号