参拝者に僧侶が教義や原理を押しつけてしまうと、共感しない人は来ないでしょう。家の近くにお墓があるのに、なぜ恐山にまで来るのか。それは恐らく、自分と死者との関係性が、日常空間や墓参りでは処理しきれないから来るのです。それを、ああしなさい、こうしなさいと人為的に仕切ろうとしても意味はない。器にあらかじめいらないものを入れておいてはいけないのです。私は、恐山では死者との関係性をその人が納得するように自由にしてもらいたいと思っています。
お供えの風車も、木の枝に縛りつけられた死者の名前を記した手ぬぐいと草鞋も、どれも仏教の教義、曹洞宗の教えともほとんど関係ありません。
風車は亡くなった子どもがあの世で遊ぶことができるように、手ぬぐいと草鞋は死者の旅路を思いやったもので、参拝者たちの間から自然に生まれてきた信仰です。恐山ではわれわれお坊さんは介入することなどできず、教義など無力なのです。ただし、参拝者から求められれば話を聞き、対話も重ねます。
●“諸行無常”が身近に
──2011年に起きた東日本大震災では、1万6千人近い人が亡くなりました。あれから6年が過ぎ、多くの命を奪った未曽有の大震災の後、日本人の死者との向き合い方に変化は起きたでしょうか。
あの地震以来、自分の足元の地面が絶対に割れないと思う人はいなくなったでしょう。また、自分が寄りかかっている制度や社会システムが万全と思っている人は、あの東京電力福島第一原発の事故を見れば誰もいないでしょう。これはすなわち、諸行無常という仏教の概念が一気に身近なものとなったということです。
諸行無常とは、確かなものは何もないということ。この感覚は日本人の情緒の中に入ると「桜が散ってはかない」という話になりますが、仏教の話になると異なり、「はかないと思っているお前がはかない」ということになります。つまり存在には根拠がない、それが無常ということで、この感覚が濃淡の差はあっても「3.11」によって日本人に共有されたと思います。
──存在に根拠がない。それは、どういう意味ですか。
あの地震が起きた時、多くの人が感じたのは、テレビの向こうでは多くの人が死んでいるのに、なぜテレビのこちら側にいる自分は生きているのかということだと思います。そこに根拠があると思いますか。他者がそうであり、自分がそうでないことに根拠などないですよね。この感覚です。
──「死者は実在する」と言われました。では、死とは何で、それを私たちはどうとらえればいいのでしょうか。