政治学者の姜尚中さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、政治学的視点からアプローチします。
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加計学園の獣医学部新設をめぐる問題について、安倍晋三首相は「指摘があればその都度、真摯に説明責任を果たす」と国会閉会後の記者会見で述べたにもかかわらず、衆参両院の閉会中審査では不在でした。
ここで浮き彫りになったのは、前川喜平・前文部科学事務次官及び文科省と、内閣府及び官邸の明確なコントラストです。
本来であれば疑惑をもたれている内閣府及び官邸側に挙証責任があるにもかかわらず、「記憶がない」を繰り返すのみ。ひとつとして文書を出していません。
公文書の重要度に応じ、公文書管理法では1年間から30年までの保存期間を設けています。分類に関しては各省庁が個別に定めており、この分類に当てはまらないと判断されると1年未満で廃棄されているため、加計問題の文書も見当たらないというのです。森友学園の時も財務省はすべて破棄しました、で押し通しました。
文書管理がこれほどずさんでいいのでしょうか。国の根幹にかかわるような政策決定も、短期間で廃棄処分するとしたら、これではもうほとんど国会の機能すら働きません。後世の歴史としての検証もできないのです。こんなことがまかり通るのは、公文書管理の面からも情報公開の面からも、あってはならないことです。
官僚制を勉強する時のイロハは文書主義なのに、官僚の要である、内閣府、人事局の一切の文書がないという現実。その一方で、国民の申請書類はどれだけ膨大なことか。ありとあらゆる文書を請求され、そのひとつひとつを精査されています。繁文縟礼という言葉がありますが、その言葉は庶民にこそ通用するけど、お上である自分たちには一切おとがめなし、とでも思っているのでしょうか。これでは戦前の官憲国家に先祖返りしているようです。
このような発想が、21世紀の日本で臆面もなく出てきているということに驚きを隠せません。下がり続ける内閣支持率、各地のデモ……。その危機感からか、ようやく安倍首相が閉会中審査出席を受け入れました。しかし、国民との感覚のずれが埋められない限り、支持率の回復は困難でしょう。
※AERA 2017年7月31日号