稲垣えみ子(いながき・えみこ)/1965年、愛知県生まれ。2016年1月まで朝日新聞記者。初の書き下ろし本『魂の退社 会社を辞めるということ。』(東洋経済新報社)が発売中
稲垣えみ子(いながき・えみこ)/1965年、愛知県生まれ。2016年1月まで朝日新聞記者。初の書き下ろし本『魂の退社 会社を辞めるということ。』(東洋経済新報社)が発売中
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 元朝日新聞記者でアフロヘア-がトレードマークの稲垣えみ子さんが「AERA」で連載する「アフロ画報」をお届けします。50歳を過ぎ、思い切って早期退職。新たな生活へと飛び出した日々に起こる出来事から、人とのふれあい、思い出などをつづります。

*  *  *

 不動産用語に「使用感」というのがあります。身も蓋もなく言い換えれば「汚れ」。賃貸住宅の広告に「若干の使用感あり」とあれば、だから安いんだヨ、そこは理解しといてねと翻訳すべし。

 で、今の家を最初に見学する前、不動産屋さんから「かなりの使用感があります」と忠告されたのでした。

 うーん。そうかあ。うーん。

 会社員時代に住んだマンションはいずれも入居前に壁も床も水回りもピカピカにしてもらっていた。でもそれは高額の家賃を払えたからこそ。会社を辞めた身でそんなことを望んではいけない。頭ではわかっていたんだが、やはり現実を突きつけられると惨めな思いがぬぐいきれません。

 なので、かなりの覚悟をして見学に。

 ところがですね、あ、あれ?

 いや確かに汚れてはいる。壁にはシミ、ヒビ割れ、ベニヤの扉には無数の傷。ガス台には黒い汚れ。なのに不思議と「汚らしい」感じは全くしなかったのです。

 それから様々な部屋を見学し、いろいろ考えてこの部屋に決め、契約時、大家さんにこの部屋の来歴を聞きました。前の住人がここを気に入り35年ほど借りていたこと。なので約半世紀前の建設当時の姿がそのまま残っていること。だから傷も汚れも「味」として残したいのだということ。

 それを聞いて私、背筋が伸びる思いがしました。

「使用感」があっても嫌な気がしなかったのは、前の住人が長い間大切に使っていたからだったのです。これはお金で買えるようなものじゃない。だとすれば私にもこの部屋を丁寧に使い、次の住人に引き継ぐ責任がある。

 そして今、壁に手などついて汚してはならぬと、まるで骨董品を扱うように暮らしております。それは意外なことに面倒でもなんでもなく、私の生きる「張り合い」となっているのです。この行動が見知らぬ誰かにつながっていくかもしれない。だとすれば、この世に私が生きた意味が少しでもあると思うことができるから。

AERA 2017年7月17日号

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