シンポに登壇した20代の女性は、辺野古の反基地運動に参加した際、「本土で基地を引き取ってほしい」と沖縄の人から直接求められた経験を明かした。「基地はどこにもいらない」というシュプレヒコールを一緒に上げながら、割り切れない思いでいる沖縄の人たちの本音に接し、戸惑ったという。
普天間飛行場所属の米軍機オスプレイの佐賀県への移転の可否を検討していた政府が15年10月に断念を表明したことが、女性が「基地引き取り」に傾倒する大きな要因になった。
「本土が壁となって沖縄の人たちの県外移設要求を拒んできた実態がよくわかりました」
女性は、「引き取り」と辺野古での阻止行動が対立するものではない、とも強調した。
「引き取り運動も阻止行動も、どちらも辺野古の海を守るのが目的です。辺野古に行ける人は現地で阻止行動し、行けない人の選択肢の一つとして、引き取り運動があってもいいのでは」
「引き取り運動」の理論的支柱となっている東京大学大学院の高橋哲哉教授はシンポを見守り、こう訴えた。
「沖縄の米軍基地の負担は日米安保条約を政治的に選択し、これからも選択していこうとしているヤマトの責任です。どこにどう持っていくかは安保の賛否にかかわりなく、ヤマトンチューであればすべて自分自身に向けられている問いだと考え、自分で答えを出すことが求められているのです」
●基地が経済発展の妨げに 朝鮮半島有事では九州が
筆者には忘れ難い記憶がある。
10年7月。普天間飛行場を離着陸する米軍機の騒音を違法だと訴える「普天間爆音訴訟」の福岡高裁那覇支部での控
審判決後、原告団の島田善次団長は思い余ったように会見場に詰めかけた全国メディアの記者に訴えた。
「沖縄の苦しみを他府県に押しつけたくないという仏心でやってきたが、いつまでたっても抑止力だ、安保条約だといって沖縄に押しつけている。皆さんが沖縄の現実を報道しなければ伝わらない。安保が必要、抑止力が必要と言うのなら、まず自分のところに持っていきなさい」
島田団長のこの発言に、会場の原告や支援者から割れんばかりの拍手がわき上がった。当時、沖縄の地元紙記者の立場でこの報道に接し、快哉を叫ぶ人々の気持ちはよく理解できた。