分割を考えたのは、社会情勢や生活水準を考えた時、全国一律の賃金を社員に与えるのは無理と思ったから。それぞれの地域に合わせる以外に生き抜く方法がないと思い、分割がベストだと決めた。

 問題は労働組合。当時の労働組合は、分割民営化は「絶対反対」の立場だった。最大の労働組合は社会党系の国労で、20万人近い組合員がいた。そこで私は、86年の暮れだったと思うが、当時の社会党委員長の土井たか子さんのもとに出向いた。

 土井さんは、「松田さんの考えでやった時、職員はどうなりますか」と聞いてくるので、私は「このままだと、鉄道は東京を除いたら何も残らなくなります。果たしてそれでいいんですか」と説得した。土井さんとは3回会って議論したが、その結果、社会党は党議拘束をかけることなく分割民営化への賛成、反対は自由投票にしてくれた。国鉄改革と言った時、中曽根康弘首相の強力なリーダーシップが注目されるが、土井さんの存在も大きい。

 分割の形態については、6旅客1貨物会社という考えのほかにも様々な考えがあった。当初、本州は今のような分割ではなく、静岡県を流れる大井川を境に、東と西とに分けようという案もあった。また北海道、四国、九州の「三島」会社は、あとあと経営支援するための別組織をつくっておいたほうがよかったのかなとも思う。私の反省だね。

●警護でホテル暮らし

 それでも命がけで体を張り、分割民営化をやってよかった。成功したのは、一部の人間の力ではなく、このままでは鉄道がなくなってしまうと危機感を抱いた「鉄道員(ぽっぽや)魂」が結集したからだろう。

 JRが発足した87年の4月1日、私は国鉄本社の4階ですべて移行を終えたという書類にサインをした後、男泣きした。そしてその日から、警視総監に「家族を守るため」と言われ、妻と2人で東京のホテルオークラで2年半暮らした。移動中もSPがついて、日曜は出かけずにホテル内で碁を学んだ。お陰で碁は三段から八段に(笑)。今となっては、いい思い出です。

(構成/編集部・野村昌二)

AERA 2017年4月10日号

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