国鉄が解体し、7社のJRが発足して30年。株式上場を機に、脱テツドウにシフトする会社があれば、お先真っ暗な未来にアタマを抱える会社あり。現在のリストラなど働く人たちの労働環境悪化は、国鉄解体に原点があるとの指摘も。「電車の進化」などさまざまな切り口で30年を検証していく。AERA4月10日号では「国鉄とJR」を大特集。JR発足の立役者JR東日本元会長・松田昌士さんに、国鉄改革について語ってもらった。
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「官をやめて民にしましょう」
私がそう言いだしたのは1983年、47歳の時。当時私は本社経営計画室の計画主幹で、国鉄に入社して22年が経っていた。
輸送機関がほかになかった時代は、国家機関だった国鉄は独占だから黒字。しかし、自動車や飛行機が発達して競争社会に入ると、「官」というものは自由がきかないから何もしない。すると当然、赤字になり、債務は雪だるま式に膨らむ。こうして64年に300億円だった赤字は、70年代後半には1兆円に届く額にまでになった。
しかし、国鉄上層部は鉄道がつぶれることを考えていないから何も手を打たない。しかも民間になれば勲章をもらえる範囲が小さくなると言われたので、定年を間近に控えた人からは「松田、バカなことをするな」と言われた。しかしこのままでは国鉄はつぶれ、職員も不幸になる。
だから私は声を上げた。そしてもう一人、同じ志を持って立ち上がったのが秘書課長をしていた井手正敬(まさたか)さん。彼とは同じ年齢だが、私は大学院に通っていた分、入社年次は2年遅れ。若手は巻き込みたくなかったが、「やります」と言ってくれたのが、2年下でいまJR東海の名誉会長をしている葛西敬之(よしゆき)君たち。こうして最終的には20人近くが集まり、「辞める時は一緒だ」と血判状を作り、民営化に挑んだ。
●助けてくれた土井さん
しかし、民営化を嫌う国鉄幹部によって、私は85年3月に北海道総局に「左遷」に。このまま郷里の北海道に骨を埋めようと思っていたら、民営化に理解のある杉浦喬也(たかや)さんが国鉄総裁になり、8カ月で本社に戻された。「分割」がいいと思ったのは、その頃だ。