現代中国を代表する作家のひとり、閻連科の作品が昨年、相次いで翻訳刊行された。村上春樹に次ぐアジアで2人目のフランツ・カフカ賞作家。何が日本の読者を魅了しているのか。
「日本で1年間のうちに3冊も作品が刊行される中国人は、魯迅以来ではないか」
谷川俊太郎の詩の中国語訳で知られる詩人で城西国際大学客員教授の田原(ティエンユアン)は言う。
今や世界中で作品が翻訳される閻連科(イエンリエンコー)(58)。その名を広く知らしめたのは、何といっても2014年のフランツ・カフカ賞受賞だろう。村上春樹に次ぐアジアで2人目、中国人初の快挙。それまでも海外のメディアに取り上げられてはきたが、常に「発禁作家」が強調された。
●発禁処分と文学賞と
閻は1958年、中国河南省の貧しい農村に生まれた。20歳の時に軍隊に入り、軍の創作学習班で創作を始めるが、中国社会に疑問を投げかける問題作を次々に発表して物議を醸す。軍隊の存在否定とも受け取られかねない軍隊における矛盾を描いた『夏日落』(未邦訳)が94年に発禁処分に。01年には『年月日』が魯迅文学賞、03年には『愉楽』が老舎文学賞という国内の権威ある賞を相次いで受賞、高い評価を受けるも、05年に発表した『人民に奉仕する』で過激な性描写と毛沢東への侮辱が問題視され、再び発禁処分となる。さらに06年、世界的にもホットな話題であった売血で感染が広がり、農民たちがエイズ患者となった実在の「エイズ村」を描いた『丁庄の夢』の増刷が禁じられ、またもや事実上の発禁処分に。
中国で著作が発禁になると国内メディアに通達され、その事実の報道も本人への取材も禁じられ、作家は表現も発言の機会も奪われる。軍に在籍していた閻は、出国も不可能であった。
後に閻は軍を離れ、出国も可能となったが、不自由な状態が続いた時期に、農村に生きた父の世代の人生を描いた随筆『父を想う』を発表すると、貧しく苦しい日々の中にあふれる豊かな親の愛が感動を呼び、メディアもこぞって取り上げ、閻のイメージは一新された。
邦訳の刊行は順序も時期も、中国における発表とは時差があるが、物語の力は薄れることなく日本の読者を虜にしてゆく。