トロツキーの思想に影響を受けた流れからは、革命的共産主義者同盟(革共同)が生まれた。この革共同がのちに運動方針をめぐって、中核派と革マル派に分かれた。
日本社会党の青年組織から生まれた、社会主義青年同盟解放派(社青同解放派)もあった。
これらの新左翼党派は60年代後半から70年代前半にかけて街頭で機動隊と激しい衝突を繰り返した。また、共産党を含めてそれぞれ独自に全学連(全日本学生自治会総連合)を作った。これは各党派の影響下におかれた大学自治会の連合組織である。いま、大学の自治会は政治を主張する場として機能していないが、当時は新左翼党派の活動家が自治会役員となって、大学を牛耳っている一面が見られた。
一方で、大学では全共闘(全学共闘会議)が生まれ、バリケード封鎖を行っている。全学連との違いは、党派に属さないノンセクトと呼ばれる学生が中心となっていたことだ。党派の寄せ集め的なところもあった。
67年の羽田闘争、68年新宿の国際反戦デー、69年1月東大安田講堂攻防戦では、全学連、全共闘が火炎ビンや石を投げつける、角材や鉄パイプを振りかざして機動隊と衝突する、政府関連施設を襲撃するなど暴れ回った。彼らはなぜ暴力に訴えるようになったのか。世界の左翼運動の動向に詳しい一橋大学教授の鵜飼哲さんはこう分析する。
「一つには、60年安保闘争の敗北の経験から、実力で阻止する気がないと何もできないという教訓を引き出したということ。もう一つは、運動を大きくするためのキャンペーンという側面。“武装カンパニア”という考えがありますが、運動の発展のために自分たちの決意の固さを行動で示し、若者たちに組織に入ってもらう、ということです」
※AERA 2015年12月7日号より抜粋