「日本の歴史」創刊号
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 日本史の”定説”は、研究が進むにつれて更新されている。いまの歴史教科書を開くと、鎌倉幕府の成立は「イイクニつくろう」の1192年ではないし、蘇我入鹿が暗殺された事件は「大化の改新」とは呼ばれない。多くの読者が教わった歴史と違っているのではないだろうか。そんな日本史の”新発見”の一端をご紹介しよう。(前編)

【その1】
聖徳太子は絶対的な実力者ではなかった!

 憲法十七条や冠位十二階の制定、遣隋使の派遣など、7世紀に革新的な政治を行った重要人物とされてきた聖徳太子。だがいまや、実在が疑われるほど影の薄い人物になってしまった。
 聖徳太子の高い評価は『日本書紀』の記述に基づくが、そもそも『日本書紀』は、8世紀に律令国家や天皇制の正統性を示すために編さんされた書物。内容の信ぴょう性を疑う研究者は多く、そのため太子の存在そのものを否定する説も出た。
 いまの定説はこうだ。厩戸王(うまやとおう)という皇子(おうじ)が、推古天皇の即位直後から政治を補佐した。この皇子は蘇我馬子とともに推古天皇を支えた有力王族の一人に過ぎず、憲法制定など様々な政策も政権全体で執り行った。だが、死後、彼は「聖徳太子」として信仰の対象になり、聖人として過大評価されていったようだ。
 現在の教科書では、「厩戸王(聖徳太子)」などと併記されるのが主流だ。かつて1万円札の顔にもなった肖像画も、本人と断定する根拠がないため、「伝聖徳太子像」と注付きで掲載されるようになっている。もはや聖徳太子は、飛鳥時代の絶対的存在ではないのだ。

【その2】
蘇我入鹿の暗殺事件を「大化の改新」と言わない

「ムシゴメ(蒸し米)で祝う」などと、年号暗記の定番だった「大化の改新」。しかし、いまは645年に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が蘇我入鹿を白昼堂々、宮中で暗殺した古代史の一大事件は、「乙巳(いっし)の変」という。
 といっても、「大化の改新」という言葉自体が教科書から消えたわけではない。大化の改新は、646年の「改新の詔」によって始まった、律令国家建設を目指す一連の政治改革のことをさす。ちなみにその「改新の詔」に関しても、『日本書紀』の記述がそのまま当時のものかどうか、信憑性について議論が続いている。

【その3】
「和同開珎」が日本最古の貨幣ではない

 日本で作られた最も古い貨幣は「和同開珎(わどうかいちん)」と覚えていないだろうか。確かに708年(和銅元年)に発行された和同開珎が、長く日本最初の鋳造貨幣と言われてきた。しかし、その情報はもう古い。
 1999年、奈良県明日香村の飛鳥池遺跡から、7世紀後半の銅銭の鋳造跡が見つかった。「富本(ふほん)」と鋳(い)こまれた大量の銅銭のほか鋳造道具なども見つかり、大規模な生産態勢があったことが確実になっている。
『日本書紀』には「今後は必ず銅銭を用い、銀銭は用いてはならない」という記述があり、いまではこの富本銭こそがそれにあたると解釈されている。ただし、富本銭は流通貨幣ではなく、まじないに用いられる「厭勝銭(えんしょうせん)」だったという説もあり、まだまだ謎は多い。

【その4】
源氏と平氏の全面戦争はなかった

「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声……」の語り出しで有名な『平家物語』は、「源平の戦い」を記した、読むも涙、語るも涙の国民的物語だが、この源平の戦いは「源氏と平氏の戦い」ではなかった、というのが最新の定説だ。
 源頼朝が1180年に伊豆で挙兵したのと前後して、河内源氏や甲斐源氏、木曽義仲などが反平氏の兵を挙げた。九州や四国など源氏以外の反乱も起きた。彼らは最初から頼朝に味方したのではなく、義仲のように頼朝に滅ぼされた者もいた。また、伊豆の北条氏など、頼朝に味方した平氏も各地にいた。あくまで、清盛率いる平氏の支配に反発した武士たちが入り乱れた戦乱だったのである。そのため専門家は、源平の戦いを「治承・寿永の乱」と呼ぶ。
 頼朝は一時、平氏との和平を望んだようだ。だが、独自に行動した義経が、平氏を壇ノ浦で滅ぼしてしまった。

【その5】
鎌倉幕府の始まりは1192年ではない

 鎌倉幕府が成立した年を、「イイクニつくろう」で1192年と覚えていた、そこのあなた。半分は正解だが、半分は間違いだ。
 源頼朝が、朝廷から征夷大将軍に任じられたのは1192年。だが、そもそも武士たち反乱軍の実効支配による武家政権の始まりを、朝廷の基準で区切るのはミスマッチだろう。
 いまは1180年に頼朝が鎌倉入りして南関東を支配したときから、武家政権の道のりはスタートしたと考える。その後、1183年、朝廷に東国支配を追認され、翌年には公文所・問注所などの統治機構が整う。1185年に守護・地頭を設置し、1190年に頼朝は貴族社会における武門の頂点、右近衛大将に任じられる。
 鎌倉幕府の成立は階段を上るようにして実現した、というのがいまや定説だ。

【その6】
源頼朝も足利尊氏も…肖像画は別人!?

 頼朝に関しては、ほかにも“常識”が覆ったことがある。
 教科書にも載り、よく知られる肖像画(国宝「伝源頼朝像」)は、神々しいまでに眼光鋭く、細部まで描き込まれた優品だが、いまではこのモデルは頼朝ではないとの説が有力となっている。
 天皇や公家の肖像画が描かれるようになったのは平安末期で、次第に武家もその対象となった。だが、武家が自分たちの肖像画を好んで描かせるようになったのは、鎌倉時代も後半のこと。作風や描かれた時期などから推察して、この肖像画のモデルは足利尊氏の弟・直義ではないかという説があり、まだ議論が続いている。
 武家の肖像画では、以前は学校でも足利尊氏像だと教えられた「騎馬武者像」も、いまでは別人という説が有力だ。ほかにも、北条時宗像や武田信玄像などに疑いの目が向けられている。
 考えてみれば、写真が残されていない歴史上の偉人がどんな顔だったかなんて知るよしもない。明治時代以後でも、写真嫌いだった西郷隆盛の肖像画や銅像も、本人にどこまで似ているか確証はないのだ。

【関連リンク】
週刊「新発見!日本の歴史」記事で紹介したような日本史の常識を覆す新発見・新視点満載のシリーズが新創刊!
http://publications.asahi.com/news/325.shtml