ここ数年、いろいろな用事で、よくブラジルへでかける。今年も、訪れるつもりである。

 ジャズが好きな人なら、ブラジルと聞けば、すぐにボサノヴァのことを、思いつくだろう。アントニオ・カルロス・ジョビンやジョアン・ジルベルトらに、想いをはせるのではないか。あるいは、スタン・ゲッツや渡辺貞夫らが、ボサノヴァをとりいれようとしたこころみに。

 じっさい、ボサノヴァの曲は、ジャズと波長があいやすい。ジャズ風にアレンジされたサンバがボサノヴァだという見方も、なりたとう。とにかく、ジャズ好きにとって、ブラジルはボッサの国なのである。

 そう言えば、リオデジャネイロの国際空港も、こう地元ではよばれている。アントニオ・カルロス・ジョビン空港と。国際的な窓口、表玄関に、ボサノヴァを代表する音楽家の名前をつけている。ボサノヴァやジョビンの世界的な名声は、ブラジル側でもわきまえているのである。

 しかし、ブラジル人に、ボサノヴァが愛好されているとは、言いきれない。たしかに、ジョビンやジルベルトのことは、よく知られている。彼らの名が世界になりひびいていることも、誇らしく思われているようだ。「イパネマの娘」や「ウェーブ」といった曲も、名曲としてなじまれてきた。だが、国民的な人気があるとは、思えない。

 リオの街を歩いていると、ジョビンの名曲を耳にする事は、しばしばある。商店のBGMに、たとえば「イパネマの娘」が流れているといったことは、すくなくない。あ、「コルコバート」だ、これは「ジンジ」だなと、よく気づかされる。

 だが、ボサノヴァらしいリズムのゆらぎは、おおむねけしさられている。いわゆるシンコペーションきかせたサウンドには、なっていない。どれもこれも、たいていサンバ風にアレンジしなおされ、街ではながされている。

 音楽としてはわかりやすくなっているが、そのぶん単純になったという印象はいなめない。サンバ風の音を聞かされ、ボサノヴァの音づくりがこっていることを、あらためて思い知る。ゆらぎやずれの多い、複雑な音楽であることを、単調なサンバがおしえているのだ。

 ボサノヴァなんて、ジャズ好きの外国人にあわせた音楽じゃあないか。あんなのをおもしろがっているのは、海外からくる人だけだろう。

 そう言いきるブラジル人もすくなからずいる。

 CDショップでも、ボサノヴァのコーナーでは、英語の会話をよく耳にする。ああ、北米の人がきているんだなというところを、よく見かけた。ボサノヴァは、アメリカのジャズにあわせた音楽で、ブラジル人にはなじめない。そんな意見にも、なるほどなと思わされる。じっさい、ボサノヴァの名曲も、地元で流される時は、サンバにやきなおされているのだから。

 私の率直な印象だが、ブラジル人はがいして音痴である。音程をとるのは苦手だし、リズムもあやしい。彼らのカラオケなんかにつきあうと、日本人のほうが歌はうまいなと、そう思う。まあ、サンバをおどらせたら、彼らのステップには、とうていたちうちできないが。

 ブラジルの小学校や中学校に、音楽の授業はない。五線譜のドレミが読みとれるのは、私塾などで楽器をならった人にかぎられる。一般人には、五線譜のしくみなど、まったくわからない。音痴が多いのも、とうぜんであろう。義務教育で音楽をおそわった日本人が、この点で彼らよりひいでているのも、まああたりまえである。

 その意味でも、リズムのとりにくいボサノヴァは、民族の好みからはなれすぎている。外国人むきの音楽だとみなされているのも、よくわかる。地元では、ボサノヴァの曲もサンバに加工されてしまうゆえんである。

 ここ数年、ジョアン・ジルベルトが、東京で演奏会をひらいてきたことは、よく知られていよう。だが、あまりながれのととのったステージではないらしい。ジルベルトは、曲と曲のあいまに、舞台で絶句したりもするという。まるで、ジョン・ケージの「四分三三秒」のように。

 東京の聴衆が、真剣に聴いてくれるので、ジルベルトは感動した。それで、言葉をしばしばうしなうのだと、主催者たちは、これまで説明してきたらしい。

 ブラジル人にこの話をすると、しかしまたちがった感想が、かえってくる。ジョアンはわがままだし、きむずかしい。東京のステージでも、客のことなんか考えずに、ひとりがってなふるまいへおよんでいる、と。

 ボサノヴァ最後の巨匠も、本国ではかたなしといったところか。