「わがままというか、協調性がないんです。小学校の通信簿に、毎度毎度、『協調性がありません』って書かれていたくらいですから(笑)。そこからは、『翻訳なんでもうけたまわります』というアルバイトの日々。あとは、清水先生から、日本のテレビ番組を海外に輸出する際のシナリオの英訳を頼まれたり。私がいつまでも『字幕翻訳家になりたい!』という夢を諦めないものだから、時々、テキストを渡されて、字幕作りの基礎を教えてくださったりもしました」

 30歳を過ぎた頃、様々な映画会社に顔を出しながら、買い付けのための、新作のシノプシス(あらすじ)づくりなども依頼されるようになった。

 小さな映画の字幕を数本、手掛けるようになっていた41歳のとき、日本ヘラルド映画という映画会社から、「フランシス・フォード・コッポラ監督が、今フィリピンで新作映画を撮っていて、フィリピンと自宅のあるサンフランシスコを往復するとき、必ず日本を経由していく。来日したときの通訳をしてくれないか」と頼まれた。

「コッポラは、知識欲が旺盛で、東京にいるときも、何が食べたい、何が観たいと、好奇心の赴くままに行動するんです。定職に就いていなかった私は、東京でのガイド兼通訳でした。それで仲良くなったのです。映画製作は難航していて、トータルで3年ぐらいかかったんですが、あるとき、監督が『今度の映画音楽には、シンセサイザーを使いたい。冨田勲に頼めないか』と言ってきた。冨田さんは、二つ返事で『やります!』と答えたのですが、あいにく冨田さんはあまり英語が得意ではなかった。音楽を作るためには、サンフランシスコの自宅でラッシュを観たり、フィリピンのロケ現場を見学する必要があって、私は、通訳としてそのお供を仰せつかったのです」

 結局、冨田さんは、すでにレコード会社と専属契約をしていたことが理由で、コッポラ監督の大作映画の製作に足を踏み入れたにもかかわらず、その作品からは降りざるをえなかった。その時点で、戸田さんはこの「地獄の黙示録」に深く関わってしまっていた。それが縁で、ようやく映画が完成したとき、翻訳の仕事を任されたのだった。

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