人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子氏の本誌連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は「秋はどこへ消えた」。
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ちょうどいい頃に軽井沢の山荘にいるのは、むずかしい。全く年によってちがうのだ。紅葉ではない。紅葉なら目安にするものがあるのだが、私のお目当ては、庭の落葉松がいっせいに散る時、落葉松の雨と呼んでいる。
針のような黄金色の葉が、風が吹くと斜めに飛んで、一本一本の針が重なって地面に落ちる。黄金色の網がかかったようで美しい。
目を離すと、あっという間に全部散ってしまいそうでよそ見が出来ない。
たいてい十月の終わり頃なのだが、去年は少し早すぎて、風があっても頑固にまだ枝についたままで離れようとしなかった。
あの落葉松の雨の中に佇んでいると、呆然として現世を忘れる。その瞬間、私もこの世という枝を離れて見知らぬ世界へ飛び立つのだ。
今年は暖冬との言葉を信じて、十一月の終わり、遅目に出かけてみると、すでに黄金色の針はすべて土の上に落ち、酷く汚れていた。
しまった! 遅すぎた。こんなに惜しいことはない。自然はいつだって私を裏切り意地悪をする。
裸になった枝の間を縫って、大き目の枯葉の船が風に揺られている。とりわけ巨大なのが朴の葉である。家の入口に植えるといい匂いがするので、我が家にも二本あるのだが、朴葉みそなど料理の皿がわりに使われる大きさで、重なるとカサカサと音を立てる。
ドングリが屋根に落ち、たまに夢の中にまでその音が入ってくる。
鳥たちは、樹々に実のあるうちは、餌としてひまわりの種子を置いてもやって来ない。
三軒下の家で枯葉をキカイで吸い込む作業をしているらしく、時折静寂を破って無粋な音がする。うなるようなその音が枯葉の最後のあがきに聞こえてくる。
軽井沢でも、たいていの家で枯葉を集めてゴミとして出すようになった。それまでは、それぞれの庭に落葉をかき集めて、落葉焚きをしたものだ。チロチロと小さな炎が上り、煙の匂いが漂ってきた。