ただ、こうした場に限らず知人や友人らの前で戦争や紛争、天皇制といったテーマが話題になったことはなかった。
前出のアークリーさんも、日本の大学に留学し、御所を何度も訪ね、酒を酌み交わしたが、
「話題はあえて、なんてことのない内容を選んでいました。日本の歴史や世界のニュースを話題にしたことはない」
学習院大卒業時の論文も、「中世における瀬戸内海水運」だった。
芳賀さんは国立劇場(東京都千代田区)で開かれた、水に関する国際的な学会で、皇太子となった浩宮さまに講演をお願いした。皇太子さまは約30分、すべてを英語で話したという。
「感心したのは、特定の人間と目を合わせることはしないが、会場に居合わせた人びとがみんな、『皇太子さまは私を見ている』と感激するような目線、ふるまいを終始徹底されていたことです。これが帝王学なのかと実感しました」(芳賀さん)
2001年12月には愛子さまが生まれ、東宮御所には笑い声が響いた。
だが03年12月、雅子さまが長期療養生活に入ると空気は一変した。元来、気さくに誰とでも会話をする皇太子さまだったが、このときは、気心の知れた何人かの仲間と過ごすときでさえ、決められた友人以外とは会話ができない場面さえあったという。
「外部に情報がもれることを警戒なさっていたのでしょう」(宮内庁関係者)
結婚のときに雅子さまに、「お守りします」と約束したとおり、夫として父親として、家庭を大事にした。
07年から10年間、上皇さまと天皇陛下の御理髪掛を務めた大場隆吉さんは、陛下のご家族への深い愛情を幾度となく感じたという。
陛下は、10代のころから一眼レフカメラを愛用することで有名だった。ご理髪の間、大場さんに、
「一眼レフとデジタルカメラの風合いの違いが好き」
と話す一方で、ビデオカメラについてにっこりと笑いながら、こう語った。
「いやあ、最近のビデオは寿命が短くて。愛子のことをビデオで撮るのですが、壊れやすいですね」
大場さんは何と返答してよいか迷いながら、「撮られる機会が多いのですね」とリラックスした雰囲気のなか、返答した。
天皇や皇族方は、ふだんから好みについて、口にすることはあまりない。それでも、大場さんの手が触れることで、緊張がほどけていたのだろう。うれしそうな笑顔を見せた。
「愛子がね、相撲が好きで、力士の名前をすべて覚えて、技もよく知っているのでわたしもびっくりしました」
一方で陛下の戦争観や平和観というのは、まだ深く伝わってきていない。
戦後70年を迎えた15年7月、皇太子時代の陛下は、戦中戦後の国民の暮らしを伝える施設「昭和館」(東京都千代田区)に、ご一家で来館したことがあった。平林茂人事務局長が案内役を務めた。
愛子さまは初めて見るレコード盤に「これは何?」と尋ねたり、音響と振動で防空壕を体験するコーナーでは「入ってみたい」と興味を示したりした。真っ暗な「防空壕(ごう)」のなかで爆撃音が響くため心配した雅子さまが「わたしも」というと皇太子さまも「ではわたしも」と、結局3人で「防空壕」に入った。
「天皇陛下は、質問は多くはありませんでしたが、戦中戦後に国民がどのような暮らしを強いられたか、よくご存じの様子でした」(平林さん)
最後に、平林さんにこうおっしゃった。
「実物がわかりやすく展示されていて、愛子にもよく伝わったと思います。とてもよい施設ですね」
毎年8月15日に都内の日本武道館で行われる全国戦没者追悼式。令和になって最初の式典に陛下と雅子さまが出席した。
注目されたおことばは、平成の内容をほぼ継承している。ただ、「国民のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられました」の「国民」を「人々」と変えた。日本国籍ではないが日本で暮らす人々の存在を考慮したとも思える。
「即位の礼」がある10月22日のオープンカーでのパレードは、台風の甚大な被害に鑑み、11月10日に延期される。美智子さまも20日のお誕生日の祝賀行事を中止した。
令和の皇室もまた、人々の痛みに寄り添う姿勢は、変わることはない。(本誌・永井貴子)
※週刊朝日 2019年11月1日号