天皇陛下は、幼いころから天皇となるべく「帝王学」を学んできた。
12歳の誕生日前に、漢学の権威である宇野哲人・東京大名誉教授に論語を学んでいる写真や、15歳の誕生日前に、王朝和歌の研究者である橋本不美男・宮内庁図書調査官から徒然草の写本の講義を受けている写真が残っている。
宇野氏は「浩宮徳仁」の命名に携わった人物だ。
命名の儀を報じた1960年2月の朝日新聞によれば、「浩」と「徳」の字は、中国の古典「中庸」三十二章の一節で、「浩々たる天」と「天徳に達するもの」から選ばれた。そして、「浩々」は「大空のように広くてかたよりのないさま」を示し、「天徳」は儒教でいう「自然の人間性」を意味しているという。
比較文化史研究者の芳賀徹・東大名誉教授は、天皇陛下が中等科時代に初めて対面した。上皇ご夫妻の仏語の先生をしていた故・前田陽一・東大教授が、「私のような年寄りばかりではなく、若い研究者と話をしていただくのもいいでしょう」と、芳賀さんを含む門下生5人を引き連れて、当時の赤坂の東宮御所を訪ねたことがきっかけだった。
「(陛下は)それは、落ち着きがあって品のある美少年でした」
芳賀さんは、東大・駒場キャンパスの何人かの面白い教授陣にも声をかけ、東宮御所で、「臨時家庭教師」の役を担った。
「民族学者の大林太良氏、科学史の伊東俊太郎さん、万葉学者である五味智英先生ら、今思えばそうそうたるメンバーです」
御所を訪れたときのこと。
「五味先生は、万葉の歌に出る言葉、『羽ぐくむ』を説明したあと、何を思ったのか私の肩を抱いて、『この芳賀君は、今もこんなふうに奥さんにはぐくまれているのです』」と朗々とした声で言った。
浩宮さまやご家族は大笑いし、芳賀さんは真っ赤になった。
浩宮さまの学びの時間は、ご一家が夕食を終えたあと。両隣に明仁皇太子(上皇さま)と美智子さまが座り、1時間ほど講義をし、芳賀さんが合いの手を入れながらお茶やお酒とおつまみでたっぷり歓談した。お三方は終始よく発言なさった。
教授陣による「家庭教師」は大学時代も続いた。
あるとき明仁皇太子に、「皆さんの前で発表をしてみなさい」と勧められ、芳賀さんら学者が並ぶ前で、浩宮さまは1時間ほど卒業論文について説明した。芳賀さんらは、大学の学生と同じように、さまざまな質問を重ねた。浩宮さまの表現が足りないときは、明仁皇太子が、「こうだったのではないか」「その点はどうだった?」と助け舟を出すこともあった。
「浩宮さまは、小難しい用語は使わず、わかりやすく、いつも正確で美しい日本語を話された。ご両親は浩宮さまたちを慈しみ、熱心に教え導かれた」(芳賀さん)