あのとき、別の選択をしていたら……。著名人が人生の岐路を振り返る「もう一つの自分史」。今回は、ノンフィクション作家で日本ペンクラブ会長の吉岡忍さん。人生の転機は、若者たちが熱く行動した時代、ベトナム反戦運動への参加でした。還暦を過ぎ、東日本大震災の被災地に向かい、再び大きな転機を迎えます。表現者として、今なお衰えない原動力とは何でしょうか?
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子どものころ、アメリカにすごく憧れていたんですよ。戦後教育では、アメリカは民主主義のお手本、自由や豊かさの象徴だったから。
――教員だった父親が本好きで、本の山に囲まれて育つ。スタインベックやヘミングウェーなどアメリカ人作家の作品や山崎正和、安岡章太郎らのアメリカ体験記も残らず読んだ。
1965年、高校生のときにベトナム戦争の北爆が始まり、「アメリカがどうしてこんなことになっているのか」と思いました。この戦争のことを調べて、「絶対おかしい」とひっかかるようになったんですよ。
67年、早稲田大学政経学部に入学したんだけど、長野から上京してすぐ、「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)のデモに参加したのね。学者の日高六郎、鶴見俊輔、作家の小田実、開高健、それにときどきは大江健三郎、堀田善衛……知識人たちがたしかにいました。
初めてデモに行ったとき、小田さんがニューヨークの反戦集会から持ち帰った缶バッジを見せてくれたんです。カラフルなバッジでカッコよかった。「日本でも作りましょうよ」と言ったら、小田さんから「ベ平連はな、言い出しっぺがやるんだよ」と言われちゃった。
――そう言われても、まだ長野から出てきて数日。電車の山手線も総武線も区別できない新参者で、途方に暮れたという。見かねた開高が、デザイナー事務所を紹介してくれた。
ベ平連はアメリカのワシントン・ポスト紙に岡本太郎の墨書で「殺すな」と訴える意見広告を出していたので、そのコピーと見本の缶バッジをもって、住所だけを頼りに銀座の事務所を訪ねました。