ベ平連で活動しているうちに、自分は何も知らない、というコンプレックスを抱いていたんです。
小田さんや開高さんや大江さんとときどきお茶や食事に行くと、彼らはよく外国の小説の話をするんです。僕も本は好きなのでかなり読んではいましたが、原著までは読んでいない。ぼーっと聞いていると、別れ際に「これ、おまえも読め」ともらったりするんですよ。それがアメリカで話題になっているペーパーバックだったりするから、もう大変。辞書と首っ引き。物知りにはなりましたけどね。
――小田や開高らは戦争の時代を体験しており、読んだものがそれぞれの経験に裏付けされ、理解しているようだった。それに対し20歳のころの吉岡はやはり頭デッカチだ、と痛感する。「海外に行き、本が書かれた現場で読もう」と決心したという。
金子光晴の紀行文をたどってマレー半島を下ったり、G・オーウェルのエッセー「象を撃つ」の舞台になったビルマ(ミャンマー)の町を訪れたり。旅行鞄(かばん)に本をたくさん詰め込んで、一回で20、30冊は持っていったかな。そういう貧乏旅行を何度も繰り返しました。現場があって生きている人がいて、そこで書かれた本を読み、話を聞くと、たんなる情報だった知識が体験化して、ものの見方が全く変わることがわかったんです。
妻と出会ったのは学生のときで、脱走兵を匿う活動を手伝ってもらっているうちに、いつしか一緒に暮らしていました。彼女はもう出版社勤めをしていたので、なかなか一緒には旅行できませんでしたが、年に1、2回はあちこち行きましたね。僕はそのころから雑誌に記事を書いたり、詩の翻訳をやったりしながら40、50カ国かな……外国をぶらぶらしていた。プータローですよ。
ただ、70年代の後半、妻が入院してしまってね。結局は胆石とわかって手術したけど、それを機に退職してしまったので、じゃ、そろそろ僕が働くかと。まあ、あまりはっきりした動機もなくノンフィクション作家になったところもありますね。