山陰・鳥取の一角に、終末医療の拠点「野の花診療所」はある。寝そべったまま入れる風呂にピアノを弾けるラウンジなどを備え、患者はそれぞれ最後のときを過ごす。19床と小規模で経営も楽ではないが、「生も死も柔和に受け入れたい」と徳永進院長は心を砕いている。先生、死を迎えるって、どんなふうですか?
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野の花診療所を始めて、もう18年。「あっと言う間でした」と大概の人が時の経過を口にするけれど、その通り、いろんなことがあった、と言ってはみますが、どんなことですか、と問われると、何、とは明言できません。
嬉しいこと悲しいこと、ハラハラすることホッとすること、感謝されること感謝すること、絶賛されること批判されること、大きいこと小さいこと、崇高なこと陳腐なこと……。
まとめては言い切れませんが、どの死にも平等に尊さを感じました。精神の尊さと身体の尊さ。両方がどの死にもありました。男も女も、老人も若者も、がんも非がんも、入院も在宅も。死は等価、と思えました。なぜでしょうか。
事の始まりは、宇宙のどこかに生じた爆発か勃発。その時の物質の破片か光の破片、それがそれぞれの命の素、ではないか、と宇宙学者や心理学者から教えられました。きっとそうだ、と思いたいのです。
してみると、ヒトの死だけが人間には特別な貴重品に映って見えますが、命の素が同一とすると、どの死も同じ現象ととらえるのが本当じゃありませんか?
まあ18年間の日々を、そんなことを考えてきた、という訳では到底ありません。胸水や腹水を抜いたり、食べられなくなった人に点滴を落とすために細いカテーテルを挿入したり、モルヒネ薬の投与法と便秘の対策を考えたり、かゆみやしゃっくりの対応に苦戦したり、目前の一つひとつに追われてきました。
なぜ、まだそんな苦労な日々をこれからも過ごす気なのでしょうか。70歳を超えてまで。言ってはいけない言葉を使うと、もう慣れ切っている、ともいえますが、まだ死が新鮮に映るからだろうと思います。死のすごさ、死の穏やかさ、とも言っていい。もっと言うと、死の面白さでしょうか。
頭が下がります、死に。死に向かっている人に、死を遂げた人に。