あのとき、別の選択をしていたら……。著名人が人生の岐路を振り返る「もう一つの自分史」。今回は、黒いニット帽をトレードマークに活躍する俳優・黒沢年雄さん。16歳で母を亡くし、家計を助けるためキャバレーのバンドマンや訪問販売のセールスマンなど、さまざまな仕事を経験したそうです。そんな俳優の原点とは──?
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僕の原点はすべておふくろなんです。僕は1944年、神奈川県横浜市に生まれました。僕は長男で、下に弟が3人。おやじは嘱託社員のボイラーマン(技士)で給料は少なかった。おふくろは朝早く起きて家族6人の食事を作って、洗濯や掃除をして、夜は遅くまで内職をして家計を助けていました。
――中学時代から野球部に所属し、高校でも野球に熱中。厳しい部活にも耐えた。母は内職をしてユニホームやグラブをそろえてくれた。
16歳のとき、そのおふくろが咽頭(いんとう)がんで亡くなったんです。まだ40歳でした。弟は14歳、12歳、10歳だった。亡くなるとき僕に「年男(本名)、頼むよ」と言ったんです。それが最後の言葉でした。すべてが僕に託された。
おふくろは横浜から東京に出たこともないし、温泉に行ったことも、うまいものを食ったこともなかった。すべてを子どもたちに注いでくれたんです。それを思うと、いまでも涙が出ます。
小学校4年くらいのとき、おふくろが最初に病気で寝込んだんです。夜店で買って育てていた2羽のニワトリを200円で売って、1本100円のバナナを2本買って、おふくろに食べさせてあげた。おふくろは喜んでね、僕を抱きしめてくれました。ブラジャーもないころで、あの胸の感触は忘れられないね。
亡くなる前に、どういうわけか16歳の僕が長男として病院に呼ばれたんです。医者に「お母さんの病気はもう治らない」と言われたときは、目の前が真っ暗になりました。
――喪失感と同時に、長男としての責任と使命感が16歳の背中にのしかかった。
おふくろの病気は当時、保険がきかなくて、おやじは会社からかなりの借金をしていたんです。だから余計に生活が大変だった。「金がない」と言われて修学旅行にも行けなくて、なんだか糸の切れた凧(たこ)みたいになってね。やけっぱちになったんです。