家出をして、地元の繁華街で悪い仲間と付き合いました。相手を見つけてはけんかをふっかけた。でもおふくろの「年男、頼むよ」という言葉がどこか頭の隅に残っていたんです。結局、その言葉に引き戻されて家に帰りました。

 おやじの給料だけじゃ弟たちを食べさせられないから僕が高校をやめて働きました。でもあのころはつらいというより、これは運命だと思っていた。結果、あのときにいろんな仕事をしたことが、後の俳優生活にどれだけ役に立ったかしれません。

――働かねば、というときに思いついたのが「俳優」という仕事だ。人を笑わせるのは得意。何よりスターになれば大金を稼げると思ったのだ。

 とにかく弟たちに腹いっぱい食べさせたかったし、風呂のある家に住みたかった。でも俳優養成所に通うお金はなかったから、いろんな仕事をして演技に役立てよう、それでチャンスを待とう、と決めました。

 17歳のころは一度に六つの仕事をしていました。昼は貨物会社で働いて、夜はキャバレーのボーイやバーテン、車のセールスマンもした。でも車なんてそうそう売れるわけがないんですよ。だから車と一緒にベッドを売ったりミシンを売ったり。避妊具も売ったんです。「車いらないですか? じゃあベッドはどうですか、ミシンもありますよ」って知恵を働かせて、生きてきたんです。

――働きながら、映画会社のオーディションを受けた。64年、東宝のオーディションに合格する。

 大映も日活も受かったんですよ。東宝を選んだのは「一番でかい会社」だから。もし俳優がダメでも不動産とかいろんなもので仕事ができるかもしれない、って。

 なぜオーディションに受かったかって? おそらくほかの人とは違うエネルギーがあったんでしょう。当時は家にも帰らず、いつ殴られるか、誰かに刺されるかもわからない毎日だった。だからほかの人と目つきが違ったんでしょう。

 オーディションでも普通にやっては受からないとわかっていたからね。「受験番号○○番のクロサワです、と自己紹介して」と試験会場で言われても「そんなの名札見ればわかるじゃないすか」なんて突っ張って言われた通りにしなかった。面接で女優・新珠三千代さんに質問されたときには「こんなきれいな人に質問されるなんて、恥ずかしい!」って床を転げまわりました。「何やってんだ」って偉い人たちも怒るのを忘れて笑っちゃうよね。そうやってインパクトを残したんです。

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