ギャンブル好きで知られる直木賞作家・黒川博行氏の連載『出たとこ勝負』。今回は三次文庫について。
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小説の三次文庫が出版されることになった。
『海の稜線』──。初出は一九八七年刊の単行本だった。そのあとがきを読むと、“昭和六十一年の一月から六十二年の二月まで、ほぼ一年間をこの作品の執筆に費やしました”とある(むかしは執筆というキザな言葉を使ってたんですね。ちょっと恥ずかしい)。当時は公立高校の美術教師だったから、本業のあいまに書いたらしい。あのころは髪の毛もいまほど薄くはなかったし、腹も出ていなかった。高血圧の薬も高脂血症の薬も服んでいなかった。麻雀のヒキは強かったし、毎年のように海外のカジノに出かけたりもした。なにより体力と集中力があったから、教師をしながら五百枚の長編を書けたのだと、遠い眼をして庭のスズメを眺めたりする。
わたしは『海の稜線』が出たのを機に二足のわらじを脱いだが、いま考えるとよくもそんな無謀なことをしたものだと背筋が寒くなる。駆け出し作家の単行本が何万部と売れることは当然なく、作家専業になったからといって、いきなり多作ができるわけでもない。作家で食うしかないと背水の陣を敷いたのがかえってプレッシャーになり、ああでもない、こうでもないと昼寝ばかりしていたら、バブルの最盛期であったにもかかわらず、それまでの年収五百万円弱が百数十万円に激減してしまった。こらヤバいぞ、と机の前に座ると、また無性に眠くなる。わたしは子供のころからイヤなことがあると寝てやりすごす特技をもっている。
そう、わたしがいまこうして小説を書き、収入を得られているのは、運に恵まれたとしかいいようがない。新聞や経済誌のインタビューで上場企業の偉いさんが、
「あのとき、わたしはこんな決断をしました」とか、「あのとき、わたしは新たなチームを組織してプロジェクトに邁進しました」と自慢たらたらなのを読んだりすると、ついわたしはイラッとしてしまう。