もし、あのとき、別の選択をしていたなら──。人生の岐路に立ち返ってもらう「もう一つの自分史」。今回は、ミュージシャンの宇崎竜童さんです。人生最大のターニングポイントは、妻・阿木燿子さんとの出会い。「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」など、二人で数々のヒット曲を生み出しました。妻と音楽への愛とリスペクトが詰まった人生を語ります。
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もうね、阿木は僕の人生のプロデューサーです。阿木がどこに向かっているかで僕の行動は決まっちゃう。ということは、自分でなんにも決めらんないってことなんだけどね。
最初に阿木と曲を作ってから、もう50年になると思います。大学時代に周囲の友達や先輩、親きょうだいにも誰かれなく「詞を書いて」って頼んでいたんです。阿木もそのなかの一人だった。
当時はカレッジ・フォークみたいな音楽がはやっていて、ほかの友人たちが書いてくる詞は、「星が、花が、風が、海が」みたいなロマンチックなものが多かったんです。でも阿木の詞は違ったんですよね。そこに何か一本筋が通っているというか。「これにどうやってメロディーつけようかな?」と挑みたくなる、新鮮さがあったんです。
――「アンタ、あの娘の何なのさ」「馬鹿にしないでよ」──。妻の阿木さんとのコンビで、数々のヒット曲を生み出したのは、周知のとおり。まず、その“人生のプロデューサー”と出会うまでを振り返ろう。
僕は7人兄姉の末っ子なんです。一番下の兄は小さいとき病気で亡くなって、それからは6人なんですけど、親はもう「育て飽きた」という感じ。長男と僕は21歳、一番近い姉で7歳違いますからね。
僕は言ってみれば間違って生まれたようなものです。昭和20年の8月の頭に、おふくろとおばあちゃんが、身ごもったことを知った。「こんな時期に産んでいいのか」と2人で悩んで「明日の晩までに答えを出そう」と。その翌日に玉音放送があって「じゃあ、産もうか」となったそうです。終戦がもう少し後だったら僕はこの世にいないですね。