そのころ、長谷川先生のお身内が小さな出版社を経営していて、私は『鏨師』を出版するならその会社から、と考えていました。でも文藝春秋は自社から出すと思っているから大変です。考えてみれば失礼な話ですよね。わずか27の新人が、天下の文藝春秋にたてついたんですから。

 当然、しばらくお仕事はいただけませんでした。長谷川先生はどこから出しなさいともおっしゃらなかった。でももし、あのとき、言われるままに文藝春秋から出していたら……経済的にはもっと楽だったかもしれませんね。でも、そのおかげでテレビの仕事に出会えたんです。

――仕事が減ったところへ声をかけてきたのは、NHKドラマ制作班だった。連続テレビ小説「旅路」の脚本を依頼してきたのだ。

 NHKも脚本家ではなく、小説家に声をかけたんですね。直木賞をとったから。

 TBSの石井ふく子プロデューサーからもお話をいただいて、「女と味噌汁」「肝っ玉かあさん」「ありがとう」と、ホームドラマが立て続けで。多いときで週に3本も書いてました。取材旅行の飛行機の中で書き上げた原稿を、折り返し戻る飛行機に託したこともありましたね。空港まで、放送局のスタッフが取りに来てくれるんです。

 綱渡りで、めちゃくちゃな時代でした。今思うと信じられませんね。結婚もして、子どもにも恵まれて。それでも執筆が続けられたのは、夫と夫の母、家族みんなのおかげです。

――長い作家生活を振り返ったとき、「小説は年を取ってからのほうがいい」と平岩は言う。

 腰が据わっているから焦らなくて済むし、無理しなくていいし、する必要もないし。これまで、娘が大病をしたり、孫に恵まれたり、いいことも悪いこともたくさんあったけれど、長谷川先生の教えに従って、お仕事はすべて、断らずに書き続けてきました。

 さすがに今はもう、年ですからね。ぼちぼちと、「来し方の記」を書いて過ごしています。たどってきた道を書いています。(人生を)歩いてきた、なんていい方をしますけど、振り返ればなんだか転んでばっかりだな、と思っていますね。

(聞き手/浅野裕見子)

週刊朝日  2019年4月19日号

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