――とはいえ、平岩が作家として歩み始めるのはまだ先の話。中学生で、平岩は生涯忘れることのできない経験をする。戦火を逃れ、福井に疎開したときのことだ。

 空襲にもあいましたが、父と母は残って、天水桶や池の水をくんでは焼夷弾にかけ続けたそうです。何代にもわたって受け継がれたお宮を守らねば、という使命感があったのでしょう。私は母方の郷里、福井へ疎開してたんです。

 でもね、福井市内も空襲があったんですよ。繊維産業の街で、パラシュートの工場があったせいだと思います。私は市内から京福電鉄で1時間ほど離れた市荒川(現・越前竹原駅)の伯母の家に身を寄せていたので無事でしたが、夜、市内の空が真っ赤になっているのを、屋根によじ登って、ぼうぜんと見ていました。

 福井ではクラスメートが親切にしてくれたんですよ。女学校に編入したんですが、方言はわからないし、生活習慣もまるで違う。いちいち驚くもんだから、ついたあだ名が「びっくりさん」(笑)。田植えも稲刈りも、都会っ子にはまるで歯が立ちませんでしたが、「びっくりさんに鎌持たせたらあかんで。ケガするから。私たちがやるから」ってね。

 そうやって、しょっちゅう遊びに行ったり、一緒に勉強したりした大切な友達の家が市内にはあった。もう居ても立っても居られない。彼女たちを捜そうと、空襲の翌朝、どうしても市内へ行かせてほしいとせがんだんです。伯父が駅長をしていたもので、大人たちが融通して貨物車の運転席に乗せてくれました。

 市内はあたり一面、焼け野原。遠くに見えるお城を目印にして歩き回りました。あのあたりは少し掘るだけで水が湧き上がるような土地だったんです。だからどこの家も防空壕がすごく浅かった。友人の家でも、みんな、その浅い防空壕に突っ伏して、焼死していました。「○○ちゃん!」と抱き起こそうとすると、どろどろになった身体に手がずぼっと入ってしまう。後にも先にも、そんな経験はありませんでした。おいおい泣きながら焼け野原を歩き回ったことを今でもよく覚えています。

 生き残った人たちに「家へお帰り」って言われて、とことこ歩いていたら、伯父が出してくれた捜索隊とばったり出会って、やっと帰れました。

 今だから、こんなふうに話せますが、あのときは誰に話すこともできませんでした。福井の伯母にも。私は「友達は……みんな死んじゃった」って言ったきり。伯母もそれ以上聞こうとしませんでした。

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