東尾修(ひがしお・おさむ)/1950年生まれ。69年に西鉄ライオンズに入団し、西武時代までライオンズのエースとして活躍。通算251勝247敗23セーブ。与死球165は歴代最多。西武監督時代(95~2001年)に2度リーグ優勝
東尾修(ひがしお・おさむ)/1950年生まれ。69年に西鉄ライオンズに入団し、西武時代までライオンズのエースとして活躍。通算251勝247敗23セーブ。与死球165は歴代最多。西武監督時代(95~2001年)に2度リーグ優勝
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現役最後の試合後、歓声にこたえるイチロー(3月21日、東京ドーム) (c)朝日新聞社
現役最後の試合後、歓声にこたえるイチロー(3月21日、東京ドーム) (c)朝日新聞社

 西武ライオンズの元エースで監督経験もある東尾修氏が、イチローとの思い出を語る。

【写真】現役最後の試合後、歓声にこたえるイチロー

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 プロ野球が開幕した。だが、その1週間前にマリナーズのイチロー現役引退のニュースが日本中を驚かせた。大リーグの公式戦でプレーした夜に、ユニホーム姿で引退会見に臨んだ。そんな選手はこれから出てくるかな。

 大リーグで3089安打し、米国の野球殿堂入り確実と言われている。その実績、功績がたたえられて、特別な時間が与えられたのが、この日本開幕戦だった。イチローのための2試合。オープン戦で結果を残せなかった45歳の選手を公式戦で使うな、とのまっとうな意見もあろう。だが、終わってみたら、イチローのために用意された2試合だと素直に思える。球団が、一人の選手のために動いた。それこそ、イチローの偉大さを物語っていると思う。

 今でも、よく神戸のホテルでどうやったら打ち取れるかについて、思いを巡らせたことを思い出す。私が西武監督になったのは1995年。イチローが日本プロ野球初の年間200安打を達成して大ブレークした94年の翌年だった。オリックス時代、本拠地の神戸では、本当によく打たれた。

 イチローは踏み出した右足が、ホームベースにかかりそうなくらいバッターボックスからはみ出ていた。白線が消えていたところを指して、球審に「足が出ている」とアピールしたこともあったよ。審判は「かかとがバッターボックスに残っている」との説明だった。当時はもちろん釈然としなかったが、それだけ踏み込みが強烈だった。投手陣には「イチローのひざから下」への投球を指示したこともあった。しかし、内角低めに意図して投げ続けられるわけがない。しかも、ストライクからボールゾーンの球も打ち返され、投げる球はなくなった。

 ハンド・アイ・コーディネーションという言葉がある。目と手の連動性。視覚的に捉えたものをバット操作につなげるその能力が抜群に高い。そういった打者を抑えるには「想定し得ない球」を投げるしかない。私が投げるとしたらスローボールかな。練習でも取り組まないような球を不意に投げることで活路を見いだすくらいしかなかっただろう。

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