2018年12月30日、昭和の香り漂うキャバレーの灯がまたひとつ消えた。きらびやかな輝きを放つ「ハリウッド」とはどのような場所だったのか。
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かつて、「キャバレー」と呼ばれる空間が各地に多く存在していた。単にホステスと酒を飲む店と混同されがちだが、ダンスフロアと生演奏のバンドを備え、ショータイムのある社交場がキャバレーの必須条件。最盛期は昭和30~40年頃。各店は競うように、華やかな装飾で非日常感を演出し、客を楽しませるための努力を惜しまなかった。
その代表格が、“キャバレー太郎”と呼ばれた福富太郎さん。「健全娯楽としてのキャバレー」を信条に、庶民向けの価格帯の「ハリウッド」を展開。
「キャバレーのことしか考えてなかった人。仕事が大好きで、利益計算そっちのけで妥協せずにたくさんの店を出すものだから、バブル崩壊後の規模縮小が本当に大変で……。それなのに本人は80歳を過ぎても、『もう1店やりたい』と言い続けていて、そのままぽっくり逝っちゃって。家族はみんな大変だったけど、本人は幸せな人生よね」
そう話すのは妻で社長の中村くみ子さん。昨年5月に福富さんがこの世を去るのを見届け、営業を続けていた北千住と赤羽の2店舗の閉店を決めた。
栄華を誇ったキャバレーは、オイルショックやバブル崩壊、飲食産業の多様化により衰退していく。それでも福富さんは毎日店に顔を出し、「こんなことをやればお客様は喜ぶはず」とアイデアを出し、「女の子がいる限り、キャバレーはなくならない」と信じていた。
「最盛期は40店以上の店があり、私は延べ約3万人の女の子と接してきて、閉店は5回も経験しました。だから、会長(福富さん)が亡くなり、こうなることは予想していましたし、閉店を知って大勢のお客さんで連日満員になるのもいつものこと。でも、私たちは最後まできちんと普段通りの営業を行い、お客様に楽しんでもらえればそれでいい。閉店したらネオンのない、女の子のいない自然の中でゴルフをしたり、のんびり過ごしたりしたいね」(北千住店総支配人・土田幸三さん)