社会風俗・民俗、放浪芸に造詣が深い、朝日新聞編集委員の小泉信一が、正統な歴史書に出てこない昭和史を大衆の視点からひもとく「裏昭和史探検」。今回はカウンターカルチャーの末席に鎮座していた「ピンク映画」。世間一般の価値観や規範意識と違う視点でつくられ、女性からはもちろん、司法当局からもにらまれた。アンダーグラウンドだった市場にあえて踏み込んだ日活の実情を振り返る。
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いまから17年前の11月16日。朝日新聞の朝刊社会面に小さな訃報記事が載った。「小林悟氏死去」。昭和37(1962)年、ピンク映画第1号とされる「肉体の市場」を作った映画監督である。
本欄でもおなじみの風俗ライター伊藤裕作さん(68)によると、女性がトイレで暴行されるシーンや拷問の場面などが強烈すぎるという理由で、封切り後まもなく警視庁に摘発された映画だ。主演女優の乳房が露出している場面もあったという。
「でも、それが逆に宣伝となって、この手の成人映画が作られるようになっていったのです。昭和の風俗史を考えるとき、決して避けて通ることのできない事件とも言えるでしょう」(伊藤さん)
本作を世に出したのは、新東宝の社長を辞し、大蔵映画を興した大蔵貢(みつぎ)だ。
翌年には、女ターザン映画「情欲の洞窟」(国映、関孝二監督)が製作された。それまでの成人映画は「エロ映画」「愛欲映画」「ハダカ映画」などと、ともすれば侮辱的な表現が冠されてきたこともあったが、ある夕刊紙が記事の中で「ピンク映画」という呼称を使った。これがきっかけで、以後「ピンク」が一般化したといわれている。
昭和40年には、若松孝二監督作品「壁の中の秘事」がベルリン国際映画祭に出品された。一般社団法人・日本映画製作者連盟(映連)の推薦を素通りして西ドイツのバイヤーが買い取ったという。当時、ピンク映画の製作費は約300万円。興行収入はこの何倍にもなったという。「国辱映画だ」と非難するマスコミもあったが、映画を評価するうえで洋の東西は関係ないだろう。