誰かのちょっとした行動で、別の人の運命が変わっていく。いま振り返るとおもしろいですね。

――だが71年、人気絶頂のときにザ・タイガースは解散。岸部は人生の転換期を迎える。

 次にどうするか何も決めていなかったですが、とにかく「解散しないと先に進めない」という感じで。僕はその後、井上堯之バンドで沢田研二のバックバンドをやったりしていましたけど、そのうちに自分が音楽をどのくらい勉強してるか、才能があるのかを考え出したんです。

 考えてみると勉強はしていないし、才能があるかといえば、そんなにないな、と。結婚して家庭を持つ前に音楽をやめるならやめないと、という気持ちもありました。

 で、思い切って音楽をやめた。やはり、大きい岐路といえば、音楽をやめて、俳優のほうに変わったときですね。

 そのとき、「ならば、俳優をやったらどう? 樹木希林さんの事務所に入れてもらったら?」と言ってくれた人がいたんです。希林さんと大楠道代さんが2人でやっている事務所だったので面接ではいろいろ聞かれました。

 主に「生活は大丈夫ですか」って。そのころ僕は結婚して子どももいたので「あなたに合う役が来たらお願いするけれど、うちの事務所は生活のために『これをやりなさい』などは一切しない。それでも大丈夫ですか?」と。僕はあまり深く考えずに「大丈夫です」。それで入れてもらったんです。

――岸部は30歳。樹木希林が34歳のときだった。この事務所での経験が俳優としての基礎をつくった。

 岸部一徳の「一徳」も、希林さんがつけてくれたんです。4歳しか違わないですが、希林さんはものすごく大人に見えました。

 晩年の希林さんは優しい人でしたけど、そのころは厳しい人だった。事務所の在り方も厳しくて「女優でも仕事の現場には一人で切符を買って、電車で行きなさい。そうやって世の中の仕組みも知らなければいけない」という事務所でした。

 それに希林さんは直接、何も言わない人なんです。「芝居はこうだ」とかも一切なしで、僕は希林さんやほかの人たちがどういう仕事をしているかを、ただ見ているだけ。それでもあの事務所での経験が俳優としての生き方も含めて、いまの僕の基本にありますね。

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