古川君とはすっかり仲良くなって、彼の家にしょっちゅう泊まって、いっしょにウクレレの練習をしたなあ。教則本もないから、レコードを何度も聴きながら「この音はどうやって出すんだろう」って試行錯誤して、たいていは上手な古川君が弾き方を見つけて、僕が教えてもらってた。彼という目標があったから、ウクレレにのめり込んだのは間違いない。
僕は大学に進学したけど、学生時代から、クラブやジャズ喫茶で演奏してお金を稼いでた。卒業後はミュージシャンの道に進みました。
米軍キャンプをまわったりして、けっこう忙しかったし、モテたんだよ。リーダーになってハワイアンバンドを結成したこともあった。でも、何年かするうちにハワイアンのブームが落ち着いてきて、バンドを移ったりエレキギターを担当してみたり、いろいろやった。
どうにかしなきゃって焦ってたわけじゃなくて、「こっちのほうが面白そうかな」という気分のほうが近いだろうね。僕は、強い信念を持って突き進むのは苦手で、いつも楽そうなほうに流されてばかりなんだ。
ドリフに入ったのは、娘のかおるが生まれた翌年だから、1964年だね。僕は31歳になってた。妻子を食べさせなきゃとは思ってたけど、先のことなんて考えてなかったな。
――ドリフのメンバーの名付け親は、当時人気絶頂だったクレージーキャッツのリーダー、ハナ肇だった。他のメンバーの名前は頭をひねって考えていたが、高木についてはひと目見るなり「おまえはブーでいいや」と決めてしまったという。
ひどいよね。僕の本名は友之助っていうんだけど、響きが古くさいから気に入らなくて「智之」っていう芸名を自分でつけてた。心の中では「その名前もあるのに、嫌だなあ」って思ったけど、事務所の大先輩だったハナさんに逆らえるわけないじゃない。
でも、ブーになってもう50年以上たって、日本中の人がその名前で覚えてくれている。85歳のおじいさんに、初めて会った人が「ブーさん」って話しかけてくれるのは、すごくうれしいよね。ブーっていう名前にずいぶん助けられてきたと思うよ。
ドリフの中での僕のポジションは、15年前に出した自分の本のタイトルにもなっているけど、あくまで「第5の男」。加藤(茶)や志村(けん)が先頭を走って、長さんがリーダーシップを取って、その後に仲本(工事)が続いて、最後に僕がついていく。目指したわけでも望んだわけでもないけど、気が付いたらそうなっていた。僕みたいにセリフ覚えも悪い、華があるわけでもない男でも、果たせる役割があるし、存在意義がある。そのことに誇りを持っています。