石破氏は鳥取県の小、中学校を卒業し、東京の高校へ進み、慶応大学法学部を卒業すると、三井銀行(現・三井住友銀行)に入社。日本橋本町支店に勤務したが、田中角栄氏から声をかけられ、銀行を退職し、田中派の事務局「木曜クラブ」に勤務するようになった。当時、隣の机に座っていたのが、前出の元県議・奥田氏だ。
「自民党中曽根派の島田安夫さんが病気で亡くなって、空きができた。角栄さんからも勧められたので、石破さんは木曜クラブを辞め、郷里の鳥取で立候補した。私が運転する車に石破さんは乗り、選挙区を回ったものです」
当時29歳だった石破氏は、中曽根派の渡辺美智雄元蔵相の政策集団「温知会」から出馬。相手は自民党田中派の平林鴻三氏、鈴木派の相澤英之氏らで壮絶な選挙だったが、最下位4位当選で滑り込んだ。
自民党内での石破批判としてよく聞くのは、お金を集められない、子分の面倒を見ないことだ。
「それはなるべくフリーハンドでいたいからなんです。石破だって、領収書のないカネを受け取ったことはある。だけど、カネ集めは最低限にして、あえて集めない。お金をもらうと普通ならどうしてもしがらみができてしまうので。しかし、もらってなければフリーハンドで言いたいことが言える。そういう面は立派だなと思う」(地元後援者)
政治家・石破氏を支える2人の女傑がいる。
一人は慶応大学法学部の同級生でもある妻、佳子さんだ。昭和電工の役員の令嬢で83年に結婚した。
「結婚式では田中角栄元首相が親代わりとして主賓で挨拶していました。『ヨメさんの親父は新潟の出身だということでいい方をもらった。またヨメさんは(総合商社の)丸紅に勤めていたというのはなおさらいいことだ』とスピーチし、会場の爆笑をさらっていました」(親族)
当時、角栄氏はロッキード・丸紅事件で騒がれていたからだ。
石破家と家族ぐるみの付き合いがあり、鳥取県知事を2期務めた片山善博氏はこう言う。