僕の場合、仕事でもプライベートでも相当に波瀾万丈だった今までの人生を乗り越えられたのは、決して自分自身が強靱な精神の持ち主だったからではないですね。何かで失敗したり、人を裏切ったり悲しませたりしても、それを全く別の次元で受け止めてくれる神という存在がある。僕の人生にはそれが必要だったし、それがなければ、恐らく自分自身がもたなかったでしょう。
でも、だからといって、積極的にキリスト教を伝道してるわけではなく、自分が若い人たちに接する際、キリスト教的な愛情を持って接しているかといえば、それは極めて怪しい(笑)。ただ、元々とても気性が激しい僕が、人に対してある程度寛容になれているのは、宗教的なものがあるからかもしれない。自分も(神に)寛容にしてもらっているから。
このようなバックグラウンドを持って患者さんの死を見るので、僕には、一般の臨床医が持つような、患者さんが死ぬことに対する敗北感などは全くない。患者さんが亡くなったら、ああここから先は神様の領域だ、と。
僕はかなりの確信を持って、人は死んだら神のもとに行くと思っています。まあ、自分でも極めて病的だとは思いますけどね。だって、天国とか神に対する科学的な根拠やエビデンスは、全然ないわけだから。でも、今までの人生行路における人との出会いや様々な出来事を、僕なりのキリスト教的理解――守られていた、導かれた、というような――で見てきた中では、相当の確信を持っています。そしてそれは、僕に一種の安定感を与えますね。
医学や医療の役割は、生物的な死を遅らせるような作業が多い。でも僕にとっては、物理的な長さよりも、短くても本当の意味で魂に平安がある状態で生きることが大切なんです。生きている間、その人がどんなことで幸せでいられるか、ということですよね。
■死への生物的な恐怖感は人間であれば避けられない
研修医の1年目に、C型肝炎に感染しました。肝がんの患者さんから採血した検体の試験管にヒビが入っていて、持った拍子に割れ、手のひらをザックリと切ったんです。ひどい肝炎の症状が出て、しばらく入院しました。慢性肝炎となり、当時はさすがに落ち込みましたね。