「ソング・フォー・ユー」も入っているソロ・デビュー『レオン・ラッセル』
「ソング・フォー・ユー」も入っているソロ・デビュー『レオン・ラッセル』
ジョージ・ハリスン&フレンズ コンサート・フォー・バングラデシュ
ジョージ・ハリスン&フレンズ コンサート・フォー・バングラデシュ

 わたしに、レオン・ラッセルの存在を強烈に埋め込んだのは、ジョージ・ハリスンの映画「バングラデシュ・コンサート」だった。高校生だったわたしは、この映画で、はじめて、動くボブ・ディランを見ることができ、レオン・ラッセルにやられたのだ。

 71年7月27日、このコンサートの企画がジョージ・ハリスンとラヴィ・シャンカールの記者会見で発表になり、同時にその模様が映画になるということを知らされた。ビートルズ解散の約1年後のことだ。そして、そのコンサートは、71年8月1日にマディソン・スクェア・ガーデンで、1日に2回だけ開催された。このコンサートには、エリック・クラプトン、リンゴ・スター、ビートルズの「レット・イット・ビー」や「ゲット・バック」でオルガンを弾いていたビリー・プレストンほか、多数のミュージシャンが参加した。わたしは、このコンサートに行きたくて仕方なかったのだが、中学生の身の上、見に行くことなど叶うはずもなかった。それに、発表されて4日後のNYでの公演ではね。そして、その夢のようなコンサートは、無事開催された。

 71年の12月、この時のライヴ音源が3枚組LPとして発売された。なんというスピードだろう。コンサート開催から3ヶ月もたっていない。この時のジョージは神がかっていた感じすらする。

 ライヴ終了後、そのときの演奏風景の写真が雑誌などに発表されはじめた。また、LPは、箱入りで、写真集付きだった。それらの写真を見てからは、映画が待ちどおしくて、もう、どきどきの毎日だ。もう、見たくて見たくて、その映画のことを考えただけで、ドーパミンがあふれ出てしまうほどだった。若いって、いいな。こんなことで、本当に興奮していたのだから。ちなみに、この時代には、まだ、ドーパミンという言葉は知らなかったけれど。

 それもそのはず、それらの写真の中には、ギターの弦に吸いかけの煙草をさしたエリック・クラプトンや真っ白なスーツを着たジョージ・ハリスンと銀髪の長い髪のおじさんに挟まれて上下のジーンズ姿で歌っているボブ・ディランがいたのである。期待するなという方が無理だ。そう、この銀色長髪のおじさんがレオン・ラッセルだった。

 さて、そのコンサート、ジョージ・ハリスンが、シタールの師匠であるラヴィ・シャンカールからバングラ・デシュの惨状を聞き、その難民を救済するために企画したチャリティ・コンサートだった。今でこそチャリティー・コンサートは珍しいものではなくなったが、この話を聞いたときには、音楽が、ロックが、ただ楽しんだり、個人の快楽のためだけのものではなく、社会に及ぼす力を持つことができるのだ、多くの困った人たちを助けることができるのだと気づかせてくれた。歴史上でも、はじめてに近い重要なコンサートだったと思う。先ほどの出演者たちも、ジョージの呼びかけに応え、ノー・ギャラで出演したという。ちなみに、ノラ・ジョーンズは、ラヴィ・シャンカールの娘である。

 そして、映画の日本での劇場公開日は、72年11月11日。1年以上待たされたわけだ。公開当日、まだ学校では少数派だったロック仲間数人と観に行った。そこでやられたのが、レオン・ラッセルだった。

 レコードで音は聴いていたのだ。そのレコードの中で、もっとも好きだった曲のひとつが、レオン・ラッセルの演奏だった。しかし、アーティストとしての情報も少なく、知っていたことといえば、カーペンターズの「スーパースター」を作曲した人というだけであった。

 映画で見た彼は、肩より長い銀髪を振り乱しながら、ピアノでローリング・ストーンズの「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」を演奏した。そのカッコイイこと!わたしは、ひと目でファンになってしまったのだ。

 レオンの話に行く前に、この映画についてもう少し。ジョージ・ハリスンと一緒に「ヒア・カムズ・ザ・サン」でギターを弾いているのが、バッド・フィンガーのピート・ハム。メインでは歌っていないけれど、ジェシー・エド・デイヴィスやビートルズの『リボルバー』のジャケットを描いたクラウス・ヴーアマンを画面で探してみるのも楽しいかも。それから、CDのプロデューサーは・フィル・スペクターだ。

 さて、レオン・ラッセルだが、42年オクラホマ州出身。10代から、セッション・マンとして、フィル・スペクターのレコーディングなどに参加。ギターもピアノも弾けるということで、重宝がられたようだ。バーズの「ミスター・タンブリン・マン」のピアノも彼だ。その後、マーク・ベノとアルバムを作り、デラニー&ボニーの音楽監督的立場に立ち、LAスワンプという音楽を作り上げていく。

 次に、ジョー・コッカーと組んで全米ツアーを成功させ、『マッド・ドッグス&イングリッシュメン』を発表する。これらは、ドキュメンタリー映画としても話題をよんだ。

 70年『レオン・ラッセル』でソロ・デビュー。2作目『レオン・ラッセル&ザ・シェルター・ピープル』(71)、3作目『カーニー』(72)を発表。どれも傑作だ。その後、ハンク・ウィリアムズをコピーしたカントリー・アルバムや当時の妻マリーと作った「ウェディング・アルバム」など、多数録音している。10年には、エルトン・ジョンといっしょにアルバムを作り、ライヴも行なっている。

 作曲にも才能を発揮し、カーペンターズでヒットした「ソング・フォー・ユー」「スーパースター」、ジョージ・ベンソンの「マスカレード」などがすぐに浮かぶ。

 もう何度も来日していて、日本でのライヴ・アルバムもある。わたしが、はじめて現物の彼を見たのは、今はなき九段会館、91年のソロ・ライヴだ。

 一時、体調を崩していたという話も聞く。今回は、バンドでの登場だ。がんばってほしい。

 40数年前、少年だったわたしは、今年、またもう一度、銀色の髪のレオンに会いに行きたい。[次回4/17(水)更新予定]

■公演情報は、こちら

●東京公演
http://www.billboard-live.com/pg/shop/show/index.php?mode=detail1&event=8502&shop=1

●大阪公演
http://www.billboard-live.com/pg/shop/show/index.php?mode=detail1&event=8503&shop=2