石牟礼さんがとっさに手にとったノートは自ら手作りしたもので、詩や俳句を創作したときに書き込むものだった。

「だけどペンを忘れてしまって」

 ここから先は、今でも記憶があいまいだという。施設の職員が駆けつけたとき、本や資料などが床に散乱して足の踏み場もなく、部屋にも入れない状態だったという。

「『もう死んでもよかたい』と思って。後で聞いたら、職員の人に助けられたそうです。声をかけられても返事もなくて、眠っていたそうです」

 石牟礼さんの作家としての歩みは、本の人々とともにある。天草で生まれ、水俣で育ち、58年に谷川雁が主宰する「サークル村」に参加して作品を書きはじめた。

 当時、社会問題となっていた水俣病を、石牟礼さんは患者たちに寄り添って執筆を続けた。「朝日ジャーナル」では、68年に水俣病問題を告発する「わが不知火」を連載したほか、詩を寄稿した「にっぽん奈落」なども掲載している。

 石牟礼さんに当時の誌面を見せると、虫眼鏡を手に取って文字を追いかけた。そして「ここに線を引いて下さい」と言われた。

〈漁のあがりさがりに獲りたての刺し身の一升や二升、ペロリとなめきらん若もんはよき漁師にゃなれん〉(「わが不知火」68年5月12日号)

 なぜ、ここに線を引いたのかをたずねると、当時の話を懐かしそうに話してくれた。

「うどんの丼にいっぱいお刺身が入ってるの。たくさんの刺身を積まないと山盛りにならないのよ。それをむさぼりくう。『おいしかですね』と言ってなめる(食べる)と、大変喜ばれました」

 水俣病という産業文明の負の遺産の前に消えていく、漁民たちの豊かな暮らし。石牟礼文学が、他に類をみない独特の世界観を確立しているのも、近代化で消えてしまった“何か”を、患者たちと一緒に回復させようとしたところにある。

 最後に、水俣の人々と一緒にチッソや国と闘っていた日々と、今の日本で何が変わったのかを聞いた。

「たいして変わらんじゃないかと思います。ただ、人間の絆というのを確かめ直す、何か実感があると思います。(地震をきっかけに)みんな手にしたと思う。体で、心で、全身で」

※『朝日ジャーナル』2016年 7月7日号(週刊朝日増刊)