北原みのり(きたはら・みのり)/1970年生まれ。作家、女性のためのセックスグッズショップ「ラブピースクラブ」代表
日本のMeToo運動は100年前にもあった(※写真はイメージ)
作家・北原みのり氏の週刊朝日連載「ニッポンスッポンポンNEO」。今回は、「MeToo」について。
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ハリウッドスターが揃って声をあげ、セクハラプロデューサーを永久追放したことをきっかけに国際的に広まった#MeTooの声。その勢いに水を差したのが、フランスのルモンド紙に掲載された100人の女性による声明文だ。
「男性や性を憎悪するフェミニストに与したくない」「MeTooは、女性に貞淑を求める保守派を利するだけ」「男女の私的な関係に全体主義を持ち込むな」云々……。この声明にはカトリーヌ・ドヌーヴも署名していた。
フェミニズムの議論は、いつもどこか同じ顔をしている。
例えば日本のMeToo運動は100年前にもあった。1920年代、廃娼運動が盛り上がるなか、自らの力で遊郭から逃げた森光子(あの森さんとは無関係)による日記『光明に芽ぐむ日』が出版され、「私も」と勇気を得て廃業できた女性たちがいた。そもそも、明治時代に廃娼運動をはじめた日本初の女性団体「矯風会」は「醜業婦は我らが姉妹なり」という言葉を残している。醜業婦という言葉を使う当時の限界はあっても、私も同じ女だ、というMeTooが根底にあった。
さて。そういう矯風会の廃娼運動に対し伊藤野枝は「愛から遠ざかり寛容を忘れている」と批判し、「男子の本然の要求と長い歴史がその根を固いものにしている」と、そもそも遊郭肯定論をはじめるのだった。完全にドヌーヴ側。また同じ頃、平塚らいてうも矯風会を「婦人運動じゃない」と断定している。本当のフェミとはフランス革命の「博愛」「自由」「平等」の流れにある人類自覚運動のはず。だけど矯風会は女のことしかやってないし、ピューリタン的だし、本当のフェミじゃないという理屈だ。アメリカピューリタニズムvs.フランス的自由という構図も、今と似てる。
フェミニズムは性的解放を求めるのか、それとも被害者としての告発なのか。だけど、こんな女の対立にこそ罠がしかけられている気にもなる。女にとっては性解放も暴力の告発も、どちらも同じ痛みの経験の上にあるはずなのだから。ちなみにフランスのオシャレ~な雑誌ELLE1月号では、別冊で女性たちが実名でDV被害を告発している。フランスも「愛と寛容」な女たちばかりではない。むしろ、今回の100人は一昔前の性解放時代のど真ん中や余波に青春を生きた人が目立つ。今の時代の流れからは、もしかしたらずれているのではないかと、ドヌーヴに失礼だわと思いながらも、思う。
フランスでもMeToo運動は確実に根付いている。翻って今の日本では、性解放=フェミ、みたいなノリは強いと思う。そもそも日本のフェミの始まりは「青鞜」たちという認識は強い。今の時代は、「いつまで被害者でいるの?」みたいな声や、女は被害者になろうと思えばなれるし、笑い飛ばそうと思えば飛ばせる、私は守られたいのではなく自由がほしいのよ!といった自己責任的で男を告発しないエロフェミが受けがいい。アメリカとかフランスとかの水準からは、日本は確実に遠い。
※週刊朝日 2018年2月2日号
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