帯津良一(おびつ・りょういち)/1936年生まれ。東京大学医学部卒。帯津三敬病院名誉院長。西洋医学だけでなく、さまざまな療法でがんに立ち向かい、人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱。「死を生きる」(朝日新聞出版)など多数の著書がある帯津良一(おびつ・りょういち)/1936年生まれ。東京大学医学部卒。帯津三敬病院名誉院長。西洋医学だけでなく、さまざまな療法でがんに立ち向かい、人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱。「死を生きる」(朝日新聞出版)など多数の著書がある
親の心をなぐさむべし(※写真はイメージ)親の心をなぐさむべし(※写真はイメージ)
 西洋医学だけでなく、さまざまな療法でがんに立ち向かい、人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱する帯津良一(おびつ・りょういち)氏。貝原益軒の『養生訓』を元に自身の“養生訓”を明かす。

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【貝原益軒養生訓】(巻第八の11)
年老(としおい)ては、さびしきをきらふ。
子たる者、時々侍(は)べり、古今の事、
しづかに物がたりして、親の心をなぐさむべし。

 益軒は養生訓のなかで老人について何度も語っています。何歳からを老人とみなしていたかは不明なのですが、「歳が下寿(60歳)をこえて70歳にいたったら、一年をこえるのも、とても難しくなる。このころになると、一年の間にも気力、体力の衰えが時とともに変わっていく。それは若いときに数年が過ぎるよりも、はなはだはっきりしている」(巻第八の14)と述べていますから、70歳を過ぎるあたりからを老人ととらえていたのでしょう。

 このような老人に対しては配慮が必要だということを益軒は繰り返し説いています。こんな具合です。

「老人は体力、気力が衰え、胃腸が弱い。つねに小児を養うように、心配りをすべきである。飲食の好みや嫌いをたずね、温度が適当になるようにし、居室を清潔にし、風雨をふせぎ、冬あたたかに、夏涼しくし、風、寒、暑、湿の邪気をよく防いでおかされないようにし、つねに心が安楽になるようにしてあげなければならない」(巻第八の2)

 この養生訓を書いたとき、益軒は80歳を超えていました。自分が老人の身だったわけですから、周りの人に自分がしてほしいことを書いたのでしょうか。年をとったら、養生は自分だけの力では実現できないことを、よく知っていたのかもしれません。いわゆる介護の重要性を世の中に説いていたといえます。江戸時代には、今のように介護施設などなかったわけですから、老人の面倒をみるのは、まずはその子どもです。益軒は子どもが年老いた親にすべきことを様々に語っています。

 
「人の子であるからには、自分の親を養う道を知らないことは、あってはいけない。親の心を楽しませ、親の心にそむかず。怒らせず、憂(うれ)いを持たせないようにしなければいけない」(巻第八の1)で始まり、「盗賊、水害、火災などの災難があったときには、まず両親を驚かさないで、早く助けださないといけない。老人は驚くと病気になる」(巻第八の2)、「栄養がおろそかになってはいけない。酒食はよく吟味して味のよいものをすすめるべきである」(巻第八の8)と続きます。

 そして、親をさびしがらせてはいけないと説きます。「年老いてからさびしいのはよくない。子たる者、時々そばにいて、古今の事を静かに話して、親の心をなぐさめるのがいい。友人や妻子とは仲良くして、父母を敬遠するのは、道理に背いて、最高の不孝である。愚かなことである」(巻第八の11)というのです。

 私の両親は実家から6、7分のところに店をかまえて玩具商を営んでいました。夜の7時すぎに店を閉め帰宅して、二人だけで夕食をとるので、そのころを狙って、たびたび訪れました。

 二人ともじつにうれしそうな表情で、母は台所から酒の肴を二、三品とお燗をつけたお銚子を運んでくれました。二人とも死ぬまで商売に熱心だったので、さびしさはあまりなかったのではないかと思うのですが、あれが私の数少ない親孝行だったのかもしれません。

週刊朝日 2018年1月26日号