今も街に見られるテレクラ。赤と黄色が目立つ(店の名前は消してあります)=(伊藤裕作さん提供)
今も街に見られるテレクラ。赤と黄色が目立つ(店の名前は消してあります)=(伊藤裕作さん提供)
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テレクラの中は一般的にこんな感じだった=(伊藤裕作さん提供)
テレクラの中は一般的にこんな感じだった=(伊藤裕作さん提供)

 社会風俗・民俗、放浪芸に造詣が深い、朝日新聞編集委員の小泉信一が、正統な歴史書に出てこない昭和史を大衆の視点からひもとく。今回は「テレクラ」。昭和51(1976)年に内山田洋とクール・ファイブがヒットさせた「東京砂漠」。人間関係が希薄な都会生活を憂えつつも、愛にすがって生きざるを得ない女性をうたった歌である。風俗の世界で働く女性たちの中にも、同じようにやるせない思いをする人がいる。

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 前回に続き、昭和56年12月、新宿にオープンしたのぞき劇場「アトリエ・キーホール」から始めたい。実はかなりまじめな(?)店だったらしい。

 店のオーナーは考えた。劇場で働く女性の中には、親元から遠く離れ、アパートで独り寂しく暮らしている人もいるにちがいない。寂しさのあまり、ホストクラブなどで遊び回り、せっかく稼いだお金を湯水のごとく使ってしまった女性もいるかもしれない。まさに「東京砂漠」ではないか。

「困ったことがあったらいつでも電話しなさい」。女性従業員にそんな言葉をかけ、劇場の電話を開放した。男性スタッフたちがかかってきた電話に応対した。いわば「人生相談電話」である。

 あにはからんや、仕事を終えて自宅に帰ったはずの女性たちから早速あれこれ電話がかかってきた。中には寂しさをまぎらわすだけの電話もあったという。

 問題は、女性からの相談に丁寧に応じるはずの男性スタッフだった。いつしか面倒くさくなり、店にいる男性客に「少しの間、頼むよ」と電話番を任せるようになった。男性客にしてみたらもうけもの。うら若い女性と懇(ねんご)ろに話ができるのだから。「すごい、すごい」。評判が評判を呼び、雑誌にも取り上げられた。

 ここまでだったらよかった。ところが、雑誌は電話番号まで掲載してしまった。だから、店と関係のない女性からも電話がかかり、一日中、鳴りっぱなしになった。話し相手を求める女性は想像以上に多かったのである。

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