1985年に「ダンシング・ヒーロー」が大ヒットし、一躍トップアイドルに躍り出た荻野目洋子さん。翌年、「フラミンゴinパラダイス」など、数々の作詞を手掛けた作詞家の売野雅勇さんに出会い、その後もヒットを飛ばした。荻野目さんと売野さんが、80年代当時を振り返る。
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売野:洋子ちゃんは88年に世界的なプロデューサーのナラダ・マイケル・ウォルデンさんに、アルバムをプロデュースしてもらったよね。サンフランシスコの彼のスタジオで英語盤を制作してから、僕が日本語盤の訳詞をすべて書いたんだ。
荻野目:ゴールド・ディスクが壁一面に貼られているんですよ、ホイットニー・ヒューストン、アレサ・フランクリンといった大御所たちの……足がすくみますよ。87年にホイットニーをプロデュースしてグラミー賞を獲った直後に、平社長がオファーしたんですよね。私の声を気に入ってくださったみたいで、引き受けてくださって。
売野:ナラダ本人も、気取らない、とても感じのいい人だったよね。
荻野目:これが並々ならぬプレッシャーで。素晴らしい完成度の曲を10曲書いてくださり、滞在した2週間のうち、1週間は英語の歌詞とメロディーを眠る暇もないくらい必死で覚えて、残りの1週間で歌入れして。時差なんて言っていられない状況でした。
売野:僕も大変だった。その場ですべてを日本語に置き換える作業をしたんだ。だけど、僕がサンフランシスコに着くとまず、平社長がリムジンで観光に連れていってくれた(笑)。
荻野目:私が曲を覚えてるあいだは、みなさんやることないですよね……(笑)。かなりお金もかかったはずですけど、素晴らしい音の仕上がりで、発売後は音楽評論家の方々に絶賛されました。やはりあの時代ならではの経験で、今はもうできないですよね。生きていく上でも凄く度胸がついた得難い経験ですね。80年代は煌びやかな時代で、楽しかったし、普段では経験できないことをたくさん経験できた。「ザ・ベストテン」の中継で、ニューヨークの5番街でオープンカーを借り切って中継をしたり……凄い時代でした。
売野:僕は最近、『砂の果実 80年代歌謡曲黄金時代疾走の日々』という本を書いたんだけど、洋子ちゃんのエピソードを書いたんだよ。洋子ちゃんが一時期よく事務所に遊びに来ていて、その頃、僕は坂本龍一さんの曲に詞をつけていたから、車内でデモテープをかけていたら、後部座席から洋子ちゃんが興奮気味に反応してね。「これ、誰? 誰なの?」って。
荻野目:売野さんの当時の女性マネジャーさんに凄く可愛がっていただきました。人脈が広くて、どちらかというと人見知りだった私に、いろんなお友達を紹介してくださって。
売野:80年代というのは、日本がすべての分野でナンバーワンになった時代。音楽の世界でも、名曲を作ろうと、みんなが競争していたんだね。
荻野目:お互いに負けたくない、という周りの取り巻きの方のあいだでの競争が凄かったです(笑)。当時賞レースという言葉があって、84年デビューで同期の吉川晃司さんは、いつも女性アイドルの中に独り、ぽつんといた印象でした。当時お互いほとんど話さなかったんですけど、私が結婚してから近所で偶然、吉川さんに会って。「あ、どうも!」って感じでざっくばらんにお話しできたんです。菊池桃子ちゃんも同期で、最近は仲良くお話ししています。10代の頃は大人たちに囲まれて仕事をしてきたので、20代になってからは意識して同年代と遊ぶようにして、ようやく埋まってきました。
売野:作詞家同士、作曲家同士、みんな仲悪かったよ(笑)。仕事仲間なんだけど、同時にライバルとして意識してもいた。打ち合わせ中にほかの作曲家の話はできなかったり……。でもそれだけ、クオリティーの高い作品がたくさん生まれた、そんな時代だったね。(構成 書籍編集部・牧野輝也)
※週刊朝日 2016年9月30日号より抜粋