ジャーナリズムの本来の姿は権力の監視役です。日本でも、フリーの記者にはそういう意識が強いが、大手メディアは、政府の発表ジャーナリズムに慣れてしまっているため、自分でニュースを掘り起こすことがあまりないと思う。
たとえば、菅義偉官房長官らの発表は不明瞭なことが多いのに、日本の記者たちはわかりやすい説明を要求しない。そのため、集団的自衛権の論議では、わかりづらい説明ばかりが繰り返し報道されました。ジャーナリズムが機能していない状態だったと思います。
NHK「クローズアップ現代」の国谷裕子さんが降板したのは、そのことで菅官房長官を問い詰めたことも原因だったのではないかと思います。日本における報道の自由度が低いことについて記事を書くと、必ずと言っていいほど「反日」「英国に帰れ」と非難されます。本来、政府が報道を規制する中国のようにならないためにメディアが声を上げていくべきだが、理解してもらえません。
意見が対立する中で自分の考えを表明するということは、それに対し責任を取るということだが、日本の記者らはこの訓練、教育が不十分のように思えます。ぶつかり合い議論するのは民主主義が成熟する重要なプロセスですが、そう教育されておらず、自分と意見の違う人間を攻撃したり、無視したりしようとする傾向が強いように見えます。
田原総一朗さんが「日本のメディアはあってしかるべき政府の圧力に立ち向かう勇気がない」と嘆いていましたが、メディアと政府が癒着すると、タブー視されている問題などを報道する際、大きな障害になります。有名なキャスターが次々と降板したのは、局内で孤立したからではないか。
ジャーナリズムを成熟させるため、そして政府がきちんと責任を果たすよう監視するため、日本のメディアが連帯する必要があります。それがメディアと国民の利益につながるのです。(構成 松元千枝)
※週刊朝日 2016年5月20日号