1934(昭和9)年、海軍工廠に弁当を納入する会社を営む父と、料理が大好きな母の長女として、広島・江田島で生まれた。21歳で結婚。3人の子を授かったが、末の子が生まれた直後に夫が心筋梗塞で急死した。父親の記憶がないほど幼かった子どもたちを女手ひとつで育てた。父が戦後始めたセメント加工会社で、事務、営業、配送と何でもこなした。

 46歳だった80(昭和55)年、中学校のPTA役員になった。警察に補導された生徒らを忙しい保護者の代わりに迎えにいくうち、親しくなった警察官から「保護司になりませんか」と勧められた。保護司とは、保護観察処分になった少年の更生を助けるために法務大臣から委嘱される地域ボランティアのことだ。中本さんは「よくわからんけどええよ」と快諾した。

 2年後の82年、シンナーをやめられない中学2年の男子生徒を担当した。骨と皮だけのような体に、真っ青な顔。髪や服にまでシンナー臭が染み付き、誰も近寄ろうとしなかった。

 袖の中に隠し持ったシンナーを手放すよう説得を試みるが、うまくいかない。あるとき、「なんでそんなにやめれんの?」と尋ねた。予想もしなかった言葉が返ってきた。

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