その後も、元親は信親亡き後の後嗣と定めた盛親とともに、秀吉の命で、小田原の戦いに加わり、さらには朝鮮に渡って戦った。

 戦いに明け暮れた人生であったが、元親は文禄の役の講和ができたころの文禄5(1596)年の4月に、京の伏見にあった土佐藩邸に秀吉を迎えている。

 この宴席には、徳川家康、前田利家といった時の大物や公家たちも招いて、精いっぱいのもてなしをした。元親はこのとき既に58歳で、体調も思わしくなかった。

 慶長4(1599)年に、61歳で元親は死去するが、その枕元に盛親はじめ重臣を呼んで遺言を残す。

 だが、その内容は「先鋒は桑名弥次兵衛、中備えは久武内蔵助、殿後は宿毛甚左衛門に仰せつけよ」という戦闘についてのもののみであった。

 秀吉は既に死去しており、次第に家康が実権を握り始めていて、時代は大きく動こうとしていた。だが、元親は、最後まで後嗣である盛親に元親亡き後の身の処し方を伝授しなかったようである。この遺言を見る限り、推測できることは元親自身が生きて、近づきつつあった政権交代にも絡む大きな戦いを自ら仕切りたいと思っていたのではないだろうか。

 元親は波乱の時代を自らの力で乗り越えて、盛親に当主の座を譲り渡したかったのかもしれない。

 だが、元親の命の火は関ケ原の大戦の前年に消えてしまった。元親の後を継いだ盛親は、その選択を迷いつつも、石田方について、家康に改易され土佐一国を失う。

 元親に、もう数年の命があったなら、元親自身が天下分け目となった関ケ原の戦いで采配を振れたのだが。

 元親は、やはり後嗣と定めた盛親に、自分亡き後の、身の処し方を直に教えておくべきであったのではないか。自らの死期を読み間違え、それを逸したのではないだろうか。時の流れは厳しく残酷である。

週刊朝日 2016年1月1-8日号