「『東京物語』の尾道ロケでは、早朝からの撮影に見物客が2千人ほど集まり、尾道水道に面した旅館に船で襲ってきたほどです(笑)」
一方で、原さんの気さくな人柄を慕う人も多かった。「千人以上いるスタッフ一人ひとりにも気を使う方。茨城出身でなまりの強い私の特徴をつかみ『なまりの坊や』と呼んでかわいがってくれました」(川又さん)
原さんの人生をひもとくと浮かぶ最大の謎は、やはり突然の引退だ。「白内障が悪化」「撮影中にカメラマンの実兄を、眼前の列車事故で亡くしたから」など諸説あるが、まことしやかに流れ、根強いのは、小津監督とのかかわりだろう。
名作を次々に生み出す二人には、常に恋仲の噂がつきまとった。小津監督の死後に出版された日記にも、
<このところ 原節子との結婚の噂しきりなり>(51年11月)
との記述がある。63年12月、小津監督の通夜に訪れた原さんが玄関先で号泣、以降忽然と公の場から姿を消したことも、巷間の思いをロマンス原因説に傾けさせた。真相はどこにあるのか。前出の貴田さんは、
「恋愛に近い感情があった可能性はありますが、小津には当時交際していた女性もいましたし、大監督と大女優という立場を考えても結婚まではいかなかった」
とみる。テレビが急速に普及し、映画が衰退を迎えつつあった時期だ。40代になって主役のオファーもなくなり、支えにしていた監督も世を去った。
「自分にとっての映画は終わりと考えたのではないか」(貴田さん)
62年5月。小津監督は日記にこう記している。
<原に酔余(酔って)電話する>
ほろ酔いで人恋しくなったとき、声を聴きたくなる相手が、原さんだった。
※週刊朝日 2015年12月11日号より抜粋