戦後、開かれた東京オリンピックで放送を担当した土門正夫さん(85)は、数々の名文句で大会を彩った。しかし神奈川県立工業学校に進み、2年目には海軍航空隊の予科練の試験を受け入学した軍国少年の土門さんが、アナウンサーになったのは意外な理由だったという。
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昭和20(1945)年の11月に復員したんですが、家ではちょうど夕食時で、大騒ぎになりましたね(笑)。
神奈川工業に復学して22(47)年に卒業し、日大専門部の機械科に入学しました。ええ、一貫して理工系なんです。復学だ、編入だ、新制だと、なんだかごたごたした青春時代だったですねえ。
理工系がなんでアナウンサーにって? これがまたいいかげんな話でして。中学時代の親友が突然、「NHKでアナウンサーを募集してる。面白そうだから冷やかしに行こう」と。で、二人で受験したら、彼は落っこちて僕は合格しちゃった(笑)。理工系1社の内定をもらっていたんですが、アナウンサーも悪くはなさそうだなと。お調子者ですから。
当時は、いまのように何が何でもアナウンサーになりたいなんて者はいなくて、転職者がほとんどでした。教員や保険会社からといった手合いが多く、年齢制限も緩くて、専門部卒で20歳だった僕より10歳も上の同期生がいたほどです。
3カ月のアナウンサー養成期間がありましたが、これは楽しかったですね。徳川夢声さん、堀内敬三さん、山本嘉次郎さんといった各界の一流の方々が講演にいらして、芸談やら話術やらを話してくれる。国会や裁判所、製造各社の見学もありました。ビール会社に行って「今日は何を見るんだ?」「味を見るんだ」なんて馬鹿を言ってね(笑)。
初任地は広島でした。26(51)年ともなると、原爆の惨禍も爆心地あたりに残るだけでね。歓楽街の流川あたりはたいへんな賑わいでした。「仁義なき戦い」の本場ですから、その筋の人間の闊歩や“夜の女”の多さに、戦後の混乱が垣間見えましたがね。被爆後に皮膚に貼りついた着物を引きずった人たちがゾロゾロと歩いていたといった生き地獄の様子を、先輩たちから聞かされもしました。